ページ

2024年9月18日水曜日

ガザ 欄外の声を求めて FOOTNOTES IN GAZA

 

ガザ 欄外の声を求めて FOOTNOTES IN GAZA」ジョー・サッコ Joe Sacco  早尾貴紀訳が2024年10月3日に発売になるらしい。私が2010年に翻訳を終えて、持ち込みを続けて14年、長かった。と言う訳で私の翻訳原稿は全くの無駄になりましたので、ここに公開します(笑)。この程度の語学力では出版されませんので、翻訳家を目指す方の参考になれば幸いです。
表紙カバー折り返し

 非常に厄介な地域で、黙殺された犯罪を漫画ジャーナリストが徹底的調査で明らかにする。ガザ地区最南端の町ラファフ、そこは荒れ果てた土地である。コンクリ剥き出しのビル、ゴミだらけの通り、路地は子供と無職の人々で溢れている。エジプトと国境を接するラファフは瓦礫の町と化しつつある。ラファは今日そして今までもずっと悲痛な闘争の発火点であった。

 公文書群のずっと下の方に見出されるだろう一つの陰惨な事件、1956年イスラエル兵士によるパレスチナ人111名の銃殺。長い殺戮の歴史においてはほんの脚注程度でしかないが、その後の解決不能な戦争を決定付けるような競合する―残忍な虐殺なのか致命的手違いなのか―事実が、あの日のラファフに現れている。事実の核心に迫ろうとジョー・サッコはガザを訪れ、日々の生活にどっぷり浸かりながらラファフの過去と現在を明らかにしていく。ある闘争から次の闘争へと流れるように移動し、難民、学生、未亡人、家長の50年に渡る声を多く伝える本書「ガザの脚注」は悲劇の根源をしっかり捉えている。

前著「パレスチナ」「安全地帯ゴラズデ」同様、ジョー・サッコは彼独特のヴィジュアルジャーナリズムで、この紛争地地を鮮明且つ正確に描いている。「ガザの脚注」は過去最大の作品であり、現代の重大な紛争を読者に分かりやすくそして身近なものとして体験させるだろう。

************************
ガザの人々へ

序文
 本書のきっかけは2001年の春、ジャーナリストのクリス・ヘッジズと私がハーパー誌の仕事でガザ地区へ行く準備をしていた頃に遡る。クリスが執筆、私がイラストレーターだ。我々は、ある町(ハーン・ユーニス)のパレスチナ人が第二次インティファーダの初期数ヶ月、イスラエルの占領に対しどう戦ったか、そこに焦点を当てる事にした。私は何年も前に読んだノーム・チョムスキー著「The fateful Triangle」の記事―国連文書を短く引用して1956年に起きたハーン・ユーニス一般人大量殺人について書かれた物―を思い出していた。かろうじて記録されたこの歴史的エピソードが、現在と共通する部分があって有用なら我々の記事に組み込もうとクリスは同意してくれた。
 1956年11月イスラエル軍がエジプト支配化のガザ地区を一時的に占領したスエズ運河危機。その時ハーン・ユーニスで何が起きたのか、我々は一日を費やしハーン・ユーニスで目撃証言を集めた。老人や女性達は父や夫が家で或いは道に並ばされてイスラエル兵に銃殺されるという過酷な話を語ってくれた。我々がインタビューした一人にイスラム抵抗党アブドゥルアズィーズ・アッ=ランティースィー(後にイスラエル軍ヘリの攻撃を受け暗殺された)がいた。あの日、おじが殺されたと1956年当時9歳だったアブドゥルアズィーズは語る。「今でも父がおじにかぶさって泣き叫び、涙を流していたのを覚えています」「あの後何ヶ月も眠れませんでした……決して癒えない傷を私の心に残しました。こうして話していても涙が出そうです。あのような行為は決して忘れられません……彼らは我々の心に憎しみを植えつけたのです」
 クリスは1956年ハーン・ユーニスで起きた事件が街の歴史上重要であると考え、短い話を幾つかハーパー誌の記事に加えたのだが、何らかの理由で編集者はその部分をカットしたのだった。
 腹立たしい事である。このエピソードは―パレスチナに住むパレスチナ人の最大の虐殺と思われるが―たとえ死者275名と言う国連の数字を信じるとしても、とても闇の中に葬り去っていい話では無い。しかし実際はこのエピソードも、広大な歴史に押し流され、かろうじて「脚注」の位置を得るのがやっとの無数の歴史的悲劇と同様なのだ。アブドゥルアズィーズが言ったように、そういった無数の悲劇には現在の事件へと方向付ける怒りと悲しみの種が含まれているのだけれど。
 私にとってハーン・ユーニス虐殺事件はそんな簡単に許せる物では無かった。幾つか調査したがこの事件について英語で書かれている物はほとんど無かったので、ガザに戻って1956年に何が起きたのか調べる事に決めた。準備しながら、当時起きた別の事件についても知るようになったが、それは同年11月12日近隣の町ラファフで多数のパレスチナ人男性が殺されたと言うものだ。そこでは何が起きたのか?この事件を歴史の完全な忘却から救ったのは又も国連のたった数行のレポートだけである。私は幾つかの点でラファフ事件の方により興味を持つようになった。ハーン・ユーニスの激しい暴力はショッキングかつ残酷であったが、クリスとの最初のガザ訪問で突き止めたように、非常に分かりやすかった。一方ラファフ虐殺はパレスチナゲリラとパレスチナ兵士を見つけ出す為に一日かけて行われた。一体どうしたら標準的軍事手続き(それが複雑だったとしても)で100人以上の人が死ぬのか?国連レポートが推測してるようにイスラエル兵が「パニックになって、走る群集を撃ちまくった」のか?想像をたくましくするならば、ラファフ事件にはもっと調査すべき事が有り、埋めるべきパズルのピースがあるようだった。それに加えて、徴兵年齢以上の男性はほぼ全員巻き込まれた大規模なラファフ事件では生き残った多くの人々はまだ生存していると思われた。しかしハーン・ユーニス事件では一列に並ばされて掃射を受けた者の中で生き延びた人はほんの一握りしかいない。従って本著は不均衡な二部構成になっている。ハーン・ユーニスについてと一方非常に長いラファフについてである。
 本著の現地調査は二回のガザ地区訪問、2002年11月と2003年3月に行われた。ハーン・ユーニスとラファフ事件のパレスチナ人目撃者の話を記録するのが優先事項であった。しかし50年も経ってから人々にあの日の事を覚えているかと尋ねるのは長く待ちすぎ、というものだ。従ってここで再現される回想は、記憶が薄れ行くのは避けられないと言う点を考慮に入れつつ吟味し、また細かい点を比較検討する必要がある。つまり生存者達は本質的に一つの同じ出来事を思い出しているのか?歴史家は文書証拠の方が口証より一般に信頼できると思っているが、そういう記録は少なく、又好ましくない指令書やレポートはしばしば保存され無いか、或いは保存されても精励な研究者でさえ手の届かない所に保存される。エジプトの軍事文書は大抵の調査には公開されず、ヨルダンか何処かにある国連文書は事件に光を投げかけるかも知れないとしても、ほぼ入手不可能である。それでも手に入る方法は試してみるのが重要だ。その為に私は二人のイスラエル人調査者を雇いイスラエル防衛軍文書館に行ってもらった。その一人には二つの事件に関する事が有れば、イスラエル国立文書館、クネセット報道機関文書館、そして共産党のコル・ハアム(人民の声)新聞館でも調べてもらった。重要な記録の翻訳、イスラエル史家、話を聞いた重要人物のリストは巻末補遺に記載した。私の体験談が、1956年の事件を目撃していたかもしれない旧イスラエル兵士の背中を押して、彼ら自身の回想と意見を提示してくれる事を願っている。もしかしたらイスラエル史家にはこの仕事を引き継ぐ必要があるかもしれない。
 本著で十分に描かれているが、記憶に頼る事に付き物の問題の他に読者に理解いただきたいのは、事件が漫画になる前にもう一枚フィルター、つまり私の視覚解釈を経ている事である。言い換えれば私は1940~50年代に起きた全シーンのセットデザイナーであり監督である。ガザの町並みと難民キャンプがどのような状況であったかを再構築するに当たり、ガザにある国際連合パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)で手に入る写真に多くを負った。又私自身の身体的特徴はパレスチナ人に似せて描いた。しかしどのような視覚化も―今回は描写だが―屈折化して現れるのは避けられないだろう。
 調査は何も無い所で行われたのではない。1956年の事件を調査している間もイスラエルはパレスチナ人を攻撃して殺し、自爆犯はイスラエル人を殺し、中東の何処かではアメリカがイラク戦争の準備を始めていた。当時ガザ地区で日常生活を送る人々にとって、ラファフとハーン・ユーニスにあるパレスチナ人住居の大規模な破壊はとりわけ重大な事態であり、それが本著の骨組みとなって展開している(この問題に関してインタビューしたイスラエル軍人側の説明は補遺2にある)。しかしながら企画を始めてから7年が経つ間にガザ地区は二つの大きな変化を受け、ここで語った現代の物語もあっと言う間に過去の歴史に成ってしまった。
 一つ目の変化は2005年、イスラエルがガザ地区のイスラエル人入植地を全て一方的に取り壊し、その狭い土地をパレスチナ人に残して去っていった事である。しかしイスラエルは今でもガザ地区の制空権をしっかり握り、海岸線を抑え、ガザ地区への出入りポイントを一箇所を除いて全て支配している(その一箇所とは南端のラファフでエジプトとのアクセス地だが、ここも出入りは厳しく制限されている)。貧困者で溢れるガザ地区は事実上イスラエルに囲い込まれ、又2008~09年冬に見られたようたイスラエルの有無を言わせぬ報復攻撃の恐怖に悩まされている。
 二つ目は2007年、イスラム主義団体のハマスがガザ地区を武力占拠し、それ以来ガザを管理している事である。イスラエルとアメリカがテロ組織と名指しするハマスだが、2006年の選挙で過半数の議席を獲得していた。対立しているファタハとの挙国一致内閣をイスラエルは受け入れられずガザ地区に更に圧力をかけるようになった。ファタハとハマスの緊張が沸点に達した時ハマスはアメリカが支援するファタハのクーデターが起きる前に先制してガザを占拠してしまった。今までのファタハ政権下での汚職腐敗の日々にうんざりしているパレスチナ人でさえ、ハマスが冷酷にファタハを鎮圧するのを見てショックを受けた。党派の違いは有っても肩を組み協力してイスラエルに抵抗しようというパレスチナ人闘士の伝統はここで終わりを告げた。ハマスが占拠したガザ地区をイスラエルは「敵対地域」と宣言し、アメリカと欧州連合も参加したガザ封鎖は、今これを書いている時点でほぼ完了しようとしている。「こういった出来事には終わりが無い」とガザのある人が言っていた。次から次へと悲劇が襲ってくるのでパレスチナ人は一つ一つを消化する余裕が許されないかのようだ。ガザにいた時、若い人々は私の1956年事件の調査を困惑の目で見ていた。たった今攻撃を受け家屋は破壊されているのに、過去の事を調べてどんな良い事がある?そうは言っても過去と現在はそう簡単には分けられる物では無い。その二つは容赦なく流れぼやけて変化してゆく歴史の一部なのだから。しかし、そこに住んでいる人にとっては悲劇であるけれども、なぜそして如何にして憎しみが心に「植えつけられた」―アブドゥルアズィーズの発言―のか理解したい人にとっても、荒々しく揺れ動く歴史を一旦止めて過去にあった一つ二つの事件を調査し明らかにするのも、価値有る事と思う。

ジョー・サッコ
2009年6月

p1
ハーン・ユーニス

p3タイトル「かすかな望み」
いや~、僕の友人マークはよくやったよ。
ジョー・サッコ(以下ジ)「君はよくやったね!」
国連の金払いのいい報道関係の仕事さ!
西エルサレムの豪華アパートのバルコニー!
素晴らしい眺めの―
ああまただ!
彼の携帯が!
今日早くにベン・グリオン空港で僕を拾ってからずっと鳴りっぱなしだ!
更なる危険な事態!
ヘブロンで!
~は安全か?
~は適切か?
ボスはまだ……?
待ち伏せのせいで……

p4
電話を切って……
でもまた携帯は鳴って!
その電話が終わると……
今度は彼が自分から電話する!
電話を切る、携帯が鳴る!
電話に出て、電話を切る!
また鳴る!
もう一回!
僕はそこから逃げ出してクリスティーンの車へ。
クリスティーンはロイターの記者。
ジ「やぁ元気?」
何時から会ってなかったかな。
そして今彼女のジャーナリスト仲間と会うところだ。
中間達は一日の汚れを落とし、今晩最初の一杯を求めてうろつき、雇われベテラン記者の取って置きの話をしている。
今日は何処にいた?
ヘブロン?
待ち伏せ?
何人死んだ?
あれにどの位影響が出る?

p5
首を横に振り
目を泳がせ
年老いていく
ウェイトレス!
メニューを見せてくれ。
爆破!
暗殺!
侵攻!
先週の話を今日新聞社に送ることも出来るし、さらに言うなら昨年の話だって。誰がその違いを分かる?
第二次インティファーダからあらゆる話を搾り出して、泣き叫ぶ母親の写真を残らず撮って、報道官のあらゆる嘘を引用し、屈辱的行為を一つ一つ詳細に述べる。それで?
二人死亡!
五人死亡!
二十人死亡!
一週間前!
一ヶ月前!
一年前!
五十年前。

p6
マークは夜遅くなってから現れ、ここでも携帯は鳴った。
でも伏兵の話じゃなかった。
彼はパーティを準備中なんだ!
来れるかい?
色んな所からみんなが来るんだ。
明日はビッグパーティさ!
そして明日は今日になった!
普通のパーティなんかじゃなかった!
もう凄いんだ!
アメリカ人
オランダ人
イギリス人
スウェーデン人
オーストラリア人
フランス人
ニューズウィーク!
ファイナシャルタイムズ!
CNN!
外交官!
国連職員!
世界銀行員!
あらゆる人がいる!
凄く驚いたな、しかも珍しいと思うけど、ピザ店が爆破され難民キャンプはブルドーザーで押し潰されてるこんな時期なのに、ラマラ来たジャズ好きのアラブ人がテルアビブから来た陽気なユダヤ人とサラダを分け合いながら一緒にポストバップジャズでグルーブしてるんだから。

p7
曲がダンスビートになると飛び上がって踊り出した黒髪のかわい娘ちゃん達はパレスチナ人?それともイスラエル人?
僕には分からないな。一人のパレスチナ人男性がこの酔いそうなシーンに僕と同じくらい嬉しそうにしながら、あたかも架空のユダヤ人の友達を見ている風の僕に合図してきた。
「我々はあんたを海に突き落としたりしないよ」
「くつろごうぜ」
ああ、世界最大の解決不能な紛争地のど真ん中でも、かすかな希望がある事を称えたい!
一方僕の希望は急速にしぼみつつあった。
「あまり良い話じゃないんだが」
海外報道局の男が、僕の報道資格申請が却下されたと伝えてきた。
「君がしている事はリアルタイムのカテゴリーに当てはまらないってさ」
"リアルタイムニュース"?
その通りなんだろう。
世界はもう先週の話を綺麗に忘れてるのに僕は50年前の話を突付き出したいんだから。
でもプレスパスが無くてもガザ地区に入れるかもしれないって、エレツ検問所の兵士次第だって、電話してきた彼が言ってたな。
でガザ地区入口エレツ検問所では、通してくれたよ。
かすかな希望が又沸いてきた!

p8タイトル「脚注」
この話は、ある忘れ去られた戦争の副次的事件の脚注である。
1956年エジプト軍はイギリス、フランス、イスラエルというおかしな同盟軍と戦争していた。
この二次的事件はガザ国境をまたいでのパレスチナゲリラとイスラエル軍の襲撃と報復攻撃である。
そして脚注は―
そう、多くの脚注と同様、歴史書の一番下に記されかろうじて残っているだけだ。

p9
脚注は無くとも歴史は進む。
歴史にとって脚注は良くてもせいぜいが不必要、悪ければ偉大なストーリーにケチをつけるものである。
時々より大胆でもっと新しいバージョンが出るたびに歴史はその脚注を完全に切り落としてきた。
理由は分かると思うけど……
歴史はもう手一杯なんだ。
時間毎、分単位でページを埋めていかなくちゃならない。
歴史は新鮮なエピソードで喉が詰まりそうだから古い物は何でも飲み干してしまわないとならないんだ。
1956年の戦争だって?
は?
例えば今晩ここガザではイスラエルのパイロットが上空を飛び回り、その下では出会ったばかりのパレスチナ人がブローニング銃をチェックしている。

p10
彼らはより大きな紛争の一部であり、二つの人種が一つの土地を巡って、相手を殺したい或いは殺す必要があると考え、今この場で殺しあっている。
彼らにとって56年なんかどうでもいいじゃないか。
誰かがカラシニコフ銃を持ってきた。
「掃除する必要があるな」
僕たちは屋上に上がった。
見えないけれど、アパッチヘリが遠ざかり、ヘリの騒音は芝刈り機のような音になって長く頭上で響き回った。暗視カメラで捕らえた映像をどこかの司令所に転送してるんだ。

p11
もう歯を磨いて体も洗い終わっていた。
パジャマがあれば着替えていたところだ。
これでハーン・ユーニスの初日が終わった。ここ数日時差ぼけで二三時間しか寝ていなかった。
アパッチヘリが遠くの何かを狙ってキャノン砲をダダダダと撃っていた。
「30ミリ」
この男は誰だ?
僕のガイド役アブドが彼の名はハレドだと教えてくれた。
アブド(以下ア)「彼は‘ムラタード’、イスラエルから狙われているんだ」
もし彼が照準線に入ったら一秒で消されてしまうだろう」
今戦車が東に向う音が聞こえ、機銃掃射が始まった。
ア「東にある村の二箇所を包囲している」
ア「タラル・アブ・ザリエフの家を破壊するつもりのようだ」
ジ「その人は誰?」
ア「活動家だ。もちろん狙われている」

p12
その後すぐ大きな爆発音を聞いた。
これでタラル・アブ・アリエフの癒えの問題は終わった。
なのでおそらくイスラエル軍はハーン・ユーニスに入って来ないだろう。
それとも?
ア「疲れてるなら寝たほうがいい」
ア「僕達のことは気にするな」
翌朝、エルサレムで自爆攻撃があったのを知った。
アブドはアラブ局をカチャカチャ見てから僕のためにチャンネルをCNNに合わせてくれた。
これまでの報道によると10名が殺されたようだ。
更なるページにもう一つの脚注。
ここでは歴史のインクが乾く事は無い。

p13タイトル「アブド」
ここがどんな所か、ちょっと忘れてるかも知れないけど、もう一度来れば全て思い出すよ、埃と子供達に纏わり付かれてね。
「ワッツユアネーム」
「ハロー!ワッツユアネーム」
「ワッツユアネーム」
あぁ、神よ、これはもういいです!
ここガザ南部の子供達は外国人をめったに見かけないから、僕はエキゾチックな時々黄金のような感じがする。
以前三人でタクシーの後部座席に座って走ってた時、もう何人か客を乗せようとタクシーが止まったんだが……
一人の客が僕の隣に詰めて座ろうとして―
でも運転手が拒否した。
「分かんねぇのか、外国人が乗ってるんだ!?」
しばしば僕の存在が不快感、疑念、ちょっとした屈辱感を与える事もある。
「あいつらは私達をもの笑いの種にしてるんだ」
嗅ぎ回り、写真を撮って、名前を聞く、そもそも僕は何者なんだ?
「どこかのユダヤ人があんたの本を手に入れて私の名前と住所を知ったら……夜になってからここに来て―」
―であなたの家を破壊する?
"もし家が破壊されたら”僕は言う"約束する。新しい家を買ってあげるよ!”

p14
みんな笑って突然―
「気にするもんか!」
「私はもう72歳だ!」
男は名前と誕生日を教えてくれ、あの1956年11月に憶えている事を全て語ってくれた。イスラエル軍がガザ地区を襲い二つの町と難民キャンプをぐちゃぐちゃにしていったあの日の事を。
概してアブドは僕に対する人々の気を楽にさせ、不信がる人には、僕の56年へのこだわりを分かり易く機械的に説明してくれた。
朝、昼、夜、アブドと一緒にいて、アブドがいるなら、僕は大丈夫ってことさ。
「あんたらまだ一緒にいるのかい?」
ハーン・ユーニスの町でアブドは有名人。
教養があるし一族も評判がいい。
愛国者である。
13~4歳の頃イスラエル兵に投石して足に銃弾を食らった。
第一次インティファーダ、1980年代後半の時だ。

p15
ある日当時のビデオを見ていた。
そこではイスラエルのトラックが、道から飛び出して次々と投石するパレスチナ人の反抗的ティーンエイジャー達を追い掛け回していた。
第一次インティファーダはとても大衆的暴動だったんだとアブドはノスタルジックに言う。
アブドはパレスチナ解放機構(PLO)とイスラエルの合意に怒っている多くのパレスチナ人の一人だ。1993年に始まったオスロ協定の事で、これによって第一次インティファーダは終わり、亡命していたヤセル・アラファトと保守派指導部がチュニジアから戻って来た。
ア「オスロがヒステリー(を作り出した)」
ア「人々はイスラエル人に向って投石をやめ、平和を投げ出し始めたんだ」
ア「でもオスロからは何も得られなかった」
イスラエル兵は大部分が撤退したけど全体的な占有は続き、ユダヤ人入植者数は二倍になった。
ア「第一次インティファーダの頃、我々は偉大な民族だと思っていた」
ア「今はそう思わないな」
ア「チュニジアにいた指導者達は我々のヒーローみたいなものだった」
ア「オスロの後、指導者達がここに来て、俺達は理解したんだ、」
ア「国家の理想より個人的な事柄を優先する奴らだって」
ア「国民ってのは自己を犠牲にする人々の事なのに、奴らが気にかけてるのはテルアビブに行ってワインを一杯飲む事と自由に旅行したって事なんだ」

p16
不安定な"オスロ期間”は果てしない占領の重圧とイスラエル大衆への自爆攻撃でねじれてしまい、2000年9月イスラエル野党リーダーのアリエル・シャロンがエルサレムの神殿の丘にあるアル・アクサモスクをこれみよがしに訪問した時、その期間は終わった。
憤るパレスチナ人の怒りが遂に爆発、第二次インティファーダが始まった。
しかし今や投石の再開は以前のインティファーダを思い出させるノスタルジックな物となり―
本気の抵抗活動は歩兵用武器を持ち爆発物ベルトを着用した武装グループの手に移っていた。
イスラエルは戦車、武装ヘリ、爆撃ジェット機を使って弾圧してくる。
イスラエル人入植地と軍基地が近くにあるトウフィーのあたりまでタクシーでちょっと来ればそのひどさが分かる。イスラエル防衛軍(IDF)はここが武装パレスチナ人の巣になっていると言い張り定期的に難民住宅を破壊している。

p17
しばしば僕とアブドはブルドーザーが前夜に破壊していったダメージを調べに来て、
瓦礫を移動している人々に話を聞いた。
ジ「君は自分の別の人生を考えられるかい?それともここに慣れてるから、想像出来ない?」
ア「出来るよ」
ア「もう一年ガザで過ごしたいけど、その後は3~4年ここを離れたい……」
ア「研究を終える為じゃなくて、世界を知る為に、異なった考えを学ぶためにね」
別の機会にアブドはこう言った―
ア「自己を見失わずに、西側の自由ってやつを体験してみたいな」
ジ「ガザでは自由を感じられる?」
ア「思考には」
彼は余り理性的でない時もある。
ア「何か飲まなくちゃ」
ア「全部忘れるために」
ア「酔っ払いたい」

p18タイトル「ガザ地区」
これがガザ地区、長さ40km、幅は最大でも12kmに過ぎず地球上で最も人口の密集している地域だ。僕が訪問した2002~3年は130万人のパレスチナ人がこの区域の約70パーセントで生活していた。残りは、1967年にイスラエルが占拠して作った飛び領土で、7500人のユダヤ人入植者が住み、IDF兵士が警護している。
地中海
パレスチナの町/市街地
パレスチナ難民キャンプ/避難住宅
イスラエル人入植地
イスラエル支配地域/安全区域
メイン道路
ここのパレスチナ人雇用率は50パーセント。70パーセントが貧困線―一日2ドル以下で生活―を下回る。三分の二が48年の戦争で生じた難民だ。大部分が国際連合パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)の管理する8つの大規模キャンプで生活している。
ガザへの出入りはパレスチナ人と外国人の場合、イスラエル軍によって厳しく管理制限されている。

p19
入植地、入植者道路、検問所はイスラエル軍ガザを分断できるように設置されている。例えばガザ南部はIDFのアブ・ホーリ検問所で封鎖されしょっちゅう他地域から分断される。
南北パレスチナ人道路
入植者専用道路
ガシュ・カティフ入植地区への入植者専用道路がここでパレスチナ人の使う南北道路を二分している。
入植者の車両が陸橋に近付いた時や安全上の理由、或いは特に理由も無くパレスチナ人の交通は差し止められる。10分か半日か、時には数日間も。
南部で人口の多く集まる場所はハーン・ユーニスとラファフの二箇所だ。ラファフの話は後でしよう。今の所僕らの本部はハーン・ユーニス。
そして指令所は街の中心にあるアブドの家だ。
ここで一日の行動を計画する……
ア「礼拝の後で会ってくれるって」
ジ「いいね」
寝食もここでする。

p20タイトル「ぬかるみ、テント、レンガ」
アブドには兄弟がいるんだけど、名前がなかなか覚えられない。
一人はオサム、医者をしている。だいたい夜勤を終えて帰宅し、アブドが空けたベッドで眠る。
僕ら三人がいるとアブドかオサムが床で寝ることになる。
兄弟の中に割り込んだのを申し訳なく思い、一度オサムに尋ねた事がある。普段は君の部屋なのかいって。
オサム「俺の部屋?」
オサム「ありえないね!」
オサム「俺らは12人だよ!」
オサム「みんなの部屋さ!」
確かに。ある晩一日がかりの仕事を終えて、たまには深夜前に布団にくるまりたいと思いながらアブドと帰宅すると、オサムが叔父と座っていた。
おじは僕の56年プロジェクトに興味を示した。
いくらあくびをして腋の下をぽりぽりかいて眠さをアピールしても叔父からは逃げられなかった。
やれやれとアブドはいつもの説明をし始めた。
叔父「でも1967年はどうなんだ」
ジ「それは別の話」
叔父「サブラとシャティーラは?」
ジ「それはレバノン」
叔父「わしらの状況についてきちんとした本を書きたいならバーゼルのシオニスト機構から始めなくては」
バーゼル?
パレスチナにユダヤ民族の郷土を、と謳った1987年のバーゼル綱領だ。
時間は間も無く深夜1:30なのに、叔父は僕を困らせだした。

p21
叔父「1948年はどう?」
分かった分かったよ!
もう、叔父の主張を採用するよ……
いずれ何処からか始めなきゃならないわけだし、イスラエルが独立を宣言し、アラブ軍が今にも生まれようとする国を攻撃した、あの分水嶺的年から始めるのも筋が通った話だ。
戦闘が終わり国連が休戦境界線を設置した時負傷したエジプト軍はガザ地区と呼ばれたパレスチナの小さな地域にしがみついていた。
何百何千ものパレスチナ人が戦火を逃れ、又はイスラエル軍に追い出されてガザに着いた時には20万人に膨れ上がり人口は三倍になった。
人道主義は非常な危機に瀕していた。難民の中には公共施設やモスクに収容された者もいたが、それにしても難民の数は多すぎたのだ。
ガザへ向う道すがら僕とアブドは当時の話を聞き集めた。身一つで追い出された人々がここにたどり着いて、見つけた物は何だったか?

p22
元、住んでた村からここに来た時……
モハメド・ユセフ・シェイカー・ムーサ
"穴を掘って毛布を地面に敷いて、しばらくはそんな生活”
"木の枝を集めてその上に毛布を被せ、その下で暮らす人もいた”
「木下で寝ていたよ」
マハムード・モハメド
"生活用具は何も持ってなかった、マットレスもテントも。ガザは砂漠みたいなものだ。
"後にクェーカー教徒が来て大きなテントを張ってくれた”
モハメド・ユセフ・シェイカー・ムーサ:"大きなテントを丸々与えられた人々もいたな。大きいテントは4家族で分け合う事もあった。毛布でそれぞれ部屋を仕切ってね”

p23
"その後、食べ物や小麦、油も配給された……”
「父親と一緒に出かけて金属製品や道具を地面から漁って売りに行ったものよ」
ラファフエサ・サリム・ハッサン・カルーブ
"で、エジプト軍陣地に行って(兵士達から)古くなったパンを買った物よ”
マハムード・モハメド:"干したサボテンを焼いて食べたり”
モハメド・ユセフ・シェイカー・ムーサ"よく木を切ってたけど燃やすのは神の力でもなきゃ無理だったな。
灯油もガスも無いんだから”
マハムード・モハメド:"(トイレの代わりに)地面に穴を掘ってね……。それが精一杯だった”
「水?一滴も無かったわ」
オム・アワド・アルナジェーリ
"みんな2km歩いて甕一杯の水を持ち帰ったわ……私は子供を抱えながら頭に甕を載せて運んだものよ”

p24
マハムード・モハメド:"かなり遠くまで水を汲んでくる事もあった。家に着くと甕は空っぽ。途中で全部飲んでしまったんだ”
ラエサ・サリム・ハッサン・カルーブ:"子供の時ロバが一匹道を歩いてたのね、で、飛び乗ったの。
"お母さんは私の服を脱がして燃やしてしまったわ。水も石鹸も不足してたから”
「テントの中で体を洗ったわ」
マリアム・アルナジェーリ
「テントは台所でありトイレであり風呂であり居間だった」
パレスチナ難民を救うためUNRWAが1949年末に設立され、1950年にクェーカー教徒から仕事を引き継いだ。
「UNRWAは各地域一箇所に水道栓を4~5個作った」
「それで送水管のネットワークができた」
モハメド・アトワ・アルナジェーリ
モハメド・ユセフ・シェイカー・ムーサ:"トイレも多く作られた。片側は女性用、もう一方の扉は男性用。トイレに入る人は誰でも底の厚い靴を履かなくてはならなかった。そうしないと水と汚水の中に沈んでしまうからね”

p25
ユセフ・イスマエル・フーダ:"自分達で粘土の家を立て始めた。テントは雨をしのげないからね……。3.5m×3.5mの小さな空間さ。
"その中に15人いる”
ラエサ・サリム・ハッサン・カルーブ:"木箱を鋳型にしてレンガを作ったのさ。並べて干して乾いたら積み上げて壁を作るんだ。
"もちろん窓なんか無い。ドアも無い。壁に穴があるだけだ”
モハメド・ユセフ・シェイカー・ムーサ:"壁は粘土で屋根は椰子の枝葉。で、その上にさらに粘土。そして一番上にタールを塗って粘土が濡れるのを防ぐんだ”
ユセフ・イスマエル・フーダ:"エジプトからござを買ったものだが、床虱がいっぱいでね。
"笑い話をしようか。湿った小麦粉を少し使って虱を殺したものさ。小麦粉が血で真っ赤になったんだ
"UNRWAはしばしばDDTをかけてくれたよ”

p26
「新聞や雑誌の写真で髪の長い子を見るとうらやましくてね。素晴らしい夢のようだった。虫や病気の原因になるから髪は伸ばせなかったんだよ」
フアド・ファカウィ
ファティマ・アルハティーブ:"私達の為にテントで学校も始まった”
ラエサ・サリム・ハッサン・カルーブ:"一日だって学校にいやしなかった。髪の毛を後ろで縛って馬みたいに走り回ってた。走りまくってたの!”
モハメド・ユセフ・シェイカー・ムーサ:"ずいぶん経ってから、UNRWAは(粘土の)家を順番に壊して、レンガブロックを運び込み、集団で家を建てた。
"家族の人数によって部屋を分け与えて……一部屋2.5m四方で……一家族毎に塀で囲った”

p27
こうやって1948年から1950年代半ばまでやってきた。難民キャンプはこんな感じだった。

p28台詞なし

p29
そして今はこんな感じ。

p30タイトル「選択肢は一つ」
1950年代半ばからハーン・ユーニスの難民キャンプの人口は増え続け、家を建てるには道路か階上に作るしかなくなっていた。
この難民キャンプは同名の町と接し、逆側からは1960年代末から2005年までイスラエル人入植地ガシュ・カティフが取り囲んでいた。
ガザ地区に広がるパレスチナ難民キャンプは人々が永遠に密集し続けてるかのようだ。
付近の町とほとんど変わらず、学校があり工場がありモスクがあり市場がある……
でもその一方でいまだに良く見られるアスベストの屋根やその下に住む汚らしい人々を見ると、この人達は身一つでやって来た難民の孫か曾孫で、今でも基本的なことは何も変わっちゃいないんだと教えてくれる。
貧しい人の中でもとりわけ貧しい人々、UNRWAが困窮枠と呼んでいるが、その数はハーン・ユーニスだけで1,3000人にも上る。

p31
地元のUNRWA職員が以前、この不幸な人々の典型的な家を紹介しようと僕を連れてきた。
二部屋に11人家族が暮らす家にお邪魔した。
くっついてきた付近の子供達をUNRWA職員が追い払うと、母親はこの家の惨状を記録したいという僕のリクエストを受け入れてくれた。
「写真撮って!」
「写真撮って!」
毛布が数枚と薄いマットレス、でもベッドは一つだけ。
衣服は山になって積まれるかビニール袋に入れられ吊るされている。
「写真撮って!」

p32
台所では壊れたオーブンが物入れとして使われ
「写真撮って」
流し台は体を洗うのにも使われ、配水管の下はバケツだ。
「撮って!」
「撮って!」
女の子がさっきまで座っていた部屋に戻る。部屋の中で、トイレと人間機能の最もプライベートな事を他と隔てているのはたった一枚の毛布なのだ。
ここから出て水面へ泳いで浮上し空気を吸わなくては……
女の子は明らかに勉強に戻りたがってるし……
でも母親は僕達を引き止めて……
夫がひどい鬱病なんだと説明し……
夫の薬について教えてくれる……
夫の薬!
この病状のせいで、いかに仕事が得られないかを語る。

p33
仕事?
もし夫が働けたとしても関係ないんじゃ?
ガザ地区に仕事はあるのか?
ひょっとしたら小さな商店店主とか……
農夫とか……
もしかしたら鉄屑を集めて売ったり。
或いは例えば増え続ける難民の子供達にUNRWAで勉強を教えたり……
小麦粉を母親達に配ったり……
或いはパレスチナ当局が雇う警官として―"サルタ”と称される―2003年では一応名目上ガザを管理しており、彼らの給料が少ないという意見は正しいんだけど。
しかし少数だが極めてうまくやっている者もいる。
ある日、長い間行方不明だったアブドの友人と旧交を温めた。
彼は英語をよどみなく話し、高い教育を受けており、アメリカ政府の支援組織で働いている。
「僕のメインの仕事は民主化とパレスチナ人の市民社会を築く事だ」
「実のところ、クソだけどね」

p34
民主化なんて信じてないし同僚のパレスチナ人も同じ考えだそうだ。
彼が言う。こういったプロジェクトに何百万も使えばパレスチナ人はイスラエルに抵抗するより自分達を見詰めるようになるだろうってアメリカ人は思ってるんだ。
でも
「僕がこの仕事をしなくても誰かがやるしね」
月給1900ドルの仕事の口が空いてるそうだ。ガザでは一財産の金額だ。
アブドは興味を示すのか?
答えはノー。
外に出るとアブドは怒って言った……
ア「彼にはショックを受けたよ」
あの友人は外貨と引き換えに愛国心を売り渡しているとアブドは言う。
「ここではアメリカから給料を貰ったって、そのアメリカ製の銃弾で命を落としかねないんだ」
アブド自身最近酷い減給―月900ドルから400ドルへ―を受け入れたところだ。勤務しているパレスチナ人NGOが英米の支援者から小切手を受け取らない事にしたのだ。
「西側の寄贈者、特にアメリカ人は裏の意図を隠してる……」
「彼らは、我々の眼を民主化問題に集中させて、我々が奴隷である事を忘れさせようと考えてるんだ」

p35
そんな贅沢な金額はほとんどのガザ住民が貰えない。多くの人はイスラエルでの単純作業か低賃金肉体労働を望んでいる。それでもガザで同じ仕事をするより支払いが2倍だからだ。
一時はガザの労働人口の半分がイスラエルで仕事を持っていたが、暴力事件が増えるにつれイスラエルはパレスチナ人労働力を制限し、タイ、ルーマニア、中国など他国から労働力を輸入し、埃にまみれるきつい仕事をさせている。
そんな中でアブドの義兄マハムードはイスラエルでの労働を許可されている数少ない一人だ。
今ちょうど木工家具の仕事を終えて帰宅したところだ。
イスラエル人三人の他にルーマニア人四人、エクアドル人二人、ロシア人一人と共に働いている。
マハムード(以下マ)「中にはヘブライ語が少し話せるのもいるし、時々はジェスチャーを使って」
マ「問題なくやっているよ」
マ「彼らは僕みたいな労働者だからね」
マ「働いて金を得る、目的は同じさ」
彼は毎日往復八時間の通勤を我慢している。ハーン・ユーニスの自宅に戻るとシャワーを浴びて礼拝し食事をして寝るまで一時間しかない。
午前三時に起きていつもの繰り返しだ。
大変だけどイスラエルで仕事が出来てラッキーだねと僕は言った。
マ「ラッキーじゃない」
マ「それしか選択肢が無いだけ」*
*2007年にハマスが政権について以降それすら選べなくなった。イスラエルがガザとの国境を封鎖してしまったから。

p36タイトル「サイドショー」
全くだ。マハムードに他の選択肢があるだろうか?妻と五人の子供を養わなくてはならないのに。
そしてパレスチナ難民に選択肢があったろうか?イスラエルの誕生と共に家と土地を失いガザの砂漠に流れ着いた状況で。
1949年のイスラエル外務省レポートの予測によると"自然淘汰を経た適応力ある者だけが生き残り、他は弱っていくだろう。死ぬ者も出るかもしれないが大部分は社会的ゴミか浮浪者になりアラブ諸国の最貧民階級に加わるだろう”
難民は土地を失い、極貧で飢え、不十分な施しに頼っていた。男性は仕事が無く無為に過ごしていた。
一方難民が残してきた土地では作物が実り、脱出した家の貯蔵室には油と小麦粉があった。しかもここから数時間歩けば手に届くほどの距離にあるのに。
全ては今や新しい人々の手、つまりイスラエル人に渡ってしまった。

p37
当時ガザ地区は今日のように有電線フェンスで囲われたりしておらず、停戦境界線も警備が薄かった。飢えに耐えかねた勇敢な難民は今やイスラエルと呼ばれてる所に忍び込んで収穫し漁り持てるだけ持って帰ってきた。
そのうち、イスラエルはガザ境界線に沿って入植地を増やしていったが警備が薄いため、難民かっこうの的になり家畜や道具が盗まれるようになった。
難民はイスラエル領に入って残してきた家族と会ったり、イスラエル領を通過してよりよい生活を求めヨルダン川西岸地区に行く者もいれば、元の自宅に帰る者さえいた。
イスラエルは何十万ものユダヤ系移民を受け入れつつあった。
パレスチナ難民の帰還や不法入国は決して許さなかったけれど。
イスラエルにとって領内に戻ってくる難民は全て"潜入者”だ。軍隊は銃殺命令を受けて境界線上をパトロールし潜入を阻止しようとしていた。
1949年だけで約1000人の難民が殺された。
1951年には命令が修正され、女性、子供、投降している者は基本的に殺さないようになった。しかし1956年までに2700~5000人の越境パレスチナ人―ほとんどは非武装―がイスラエル兵の待ち伏せや入植地近くに置かれた仕掛け罠によって殺されている。

p38
潜入者には厳しく対処するというイスラエルの決断は強固になった。難民がユダヤ人と不意に遭遇した時、或いは復讐の為にユダヤ人をしばしば殺すようになったのだ。1956年までに300人のイスラエル市民が殺害された。
エルサレムで元軍人のモーデシャイ・バーオンに面会した。彼は50年代半ばにイスラエル軍のトップ、モシェ・ダヤン将軍の主席書記を務めた男だ。
ユダヤ人の血の代償として且つ潜入者への報復としてイスラエルが取った政策を今は歴史学者であるバーオンが語る。
バーオン「報復作戦の目的は基本的には抑制です」
バ「よく考えて欲しいのですが、そちらが攻撃してきてるのです。市民にであれ、軍隊にであれ」
バ「しかしそちらのする事が全て、こちらの軍隊や警察にしぶしぶ潜入者を弾圧させることになるのです」
初めの頃イスラエルの政策はパレスチナ市民を徹底的に叩いてアラブ諸国にそちらの境界線を封鎖しろとメッセージを送る事であった。
この政策は1953年にピークを迎えた。ユダヤ人女性一人とその子供二人が殺された事への復讐として、アリエル・シャロン少佐率いる一団が西岸地区に侵入。
シャロンはキブヤの村を攻撃せよと命じたが、もっと正確に言えば"出来るだけ殺せ”と命じたのだ。

p39
村での抵抗は一切無かったのにシャロンの一団は家に隠れているパレスチナ人を撃ち、さらに建物を爆破した。キブヤで少なくとも42人が殺されたがその内38人は女性と子供だった。
世界中から抗議を受けてイスラエル政府はその後、報復を一般人ではなく軍事、警察組織だけにすると決定した。
しかしバーオンに言わせると、この一般人への襲撃も―
バ「―エジプト人には何の影響も与えませんでした。ナセールはガザ地区で起きてる事なんか全然気にしてませんでしたから」
ガマール・アブドン・ナーセル大統領!
アラブ近現代史で最も偉大なリーダーの一人!
1952年エジプト王政を倒した将校団の一員で汎アラブ主義―北アフリカ、メソポタミア、アラビア半島の連帯を目指す思想―主義者だ
バーオンが示唆したように、ガザの状況が"カイロでの自政権を危険にさらすようなものではない”とナーセルが考えたとしても、その考えは1955年2月28日の夜に変わる事になる。
ここで最初の脚注が書かれるのだ。

p40タイトル「フェダイーン」
アブドと二人で1955年2月のあの恐ろしい夜とそこから生まれたパレスチナ人ゲリラグループの話をしてくれる老人を探して、ハーン・ユーニスの町とキャンプを駈けずり回った。
手掛かりを求めてタクシーに乗って!
病院へ!
そこで働いてる男の兄がそうらしいと聞いて―
やった!やった!兄がゲリラだ。フェダイーンだ、よし、でも―
「35年前に死んだよ」
僕達は粘り強いんだ。
別の人に会いに別のタクシーに乗って、今度は町から出て田舎へ。

p41
そしてある家のある部屋、祈り、希望、"インシャラー”―神の思し召しを―本物に会えるといいのだが。
「サラーム・アライクム」<三上注あなたの上に平和がありますように>
「アライクム・アッサラーム」<三上注あなたの上にも平和がありますように>
一目見てこの人だと思った。
本物を見つけた、テープレコーダーを用意する……
挨拶代わりの儀礼的な歓談をする前にまず最初の質問を投げかけた。
ジ「で……」
ジ「あなたはフェダイーンだったんですよね」
ジ「経験を語ってくれますか」
いや、まだあまり話したくないのだ。
フェダイーン時代を語るにはタバコが一本必要だそうだ。
なんてこった!
今はラマダンで太陽は未だ沈んでない!
ア「断食の後、晩になったら戻って来いって」
ジ「それならタバコを吸えると」
ア「そう。タバコを吸える」
こうして、不運な漫画家としたたかな元ゲリラのミスマッチでいらいらするような対談が始まった。

p42
数ヶ月間に四回彼の元を訪れたがその度に、自身が経験した48年と67年の話をこと細かくして僕をくたびれさせた。でもそんな話、僕には全く必要ないんだ。
50年代半ばが欲しい!
50年代半ば!
50年代半ば!
でも僕の指図は受けなかった。はっきり言えば、昔はかなり指図を受けていたんだけど。
彼は兵士の中の兵士
第二次世界大戦中は英国陸軍に所属し、後にトランスヨルダン国境警備隊に入隊。
1948年ユダヤ軍と戦闘……
停戦後少しの間似合わない仕事をしていた……。
「16日間先生として働いた」
"給料を取りに行ったら現物支給だったんだ、米とか、トウモロコシとか。その穀物袋を投げ捨てたよ。
「神はペンではなく銃を持たせるために我を創りたもうた!」

p43
軍事クーデターでエジプト王政が倒れた翌年の1953年、この男は新しく創設されたエジプト人指揮下のパレスチナ人武装集団に参加。
任務の一つにはイスラエルに侵入し諜報活動をするというのがあった。
「でも我々はよく命令以外の事もした」
「入植地に入って牛や羊を盗む者もいた」
ある時、多くのパレスチナ兵がムスリム同胞団と関わりを持っているという理由で一時的に免職されられた。ムスリム同胞団とは好戦的イスラムグループでエジプト政府に敵対し勝手に破壊工作や報復活動をイスラエルで行っていた。
ジ「あなたも免職された一人ですか?」
男「一番最初にだ!」
「お前、こっち来い!」
「一人目はお前だ」
男「本当さ」
しかし4ヵ月後には又任務に呼び戻されたそうだ。
新しく入ったパレスチナ兵グループはエジプト正規兵の任務である国境警備を引き継ぐようになった。彼は非常にエジプト兵を軽蔑していた。
"あいつらは部屋の中にいるんだ”
"兵士のいるべき場所じゃないだろ。
"夜になると大麻を持ち出して水パイプで吸って
"酒を持ってきては酔っ払って
"寝る
"イスラエルが奴らを殺そうと思えば、いつでも出来たろうよ。

p44
"任務を引き継いだ時きちんとした陣地を作った。有刺鉄線をまいて、壁を作り塹壕を掘った。素晴らしい陣地だ。部下は36人いた。
彼の一団は小競り合いが続いて過熱気味の停戦境界線地域を見張っていた。パレスチナ人をガザ地区からイスラエルへ侵入させないようにするのが彼の使命だった。
エジプト当局は越境しようとして捕まった者には懲役刑を言い渡し厳しく対処した。
イスラエルがガザにあるエジプト陣地を報復攻撃した後は、しょっちゅう取り締まりが厳重になった。しかしその後にはたいていパレスチナ人侵入者によるユダヤ人殺害が続いて起こった。
しかしパレスチナ人の国境警備兵なんか信用出来るだろうか。最近まで自分の土地だった所に血族の難民が入ろうとするのを止めるだろうか?
おちろん信用できない。ガザのエジプト軍事諜報省ムスタファ・ハフェツ少佐によると"パレスチナ軍団は潜入者の侵入を助けつつ停戦ライン沿いの攻撃は指示通り遂行していた。これが緊張を高める事になっていくのだが”
そしてこの男こそ、まさにパレスチナ兵士ハフェツが言った様な事をしていたのだ。
地図を描きながら
男「こちらが我々の陣地……でこっちがイスラエル領」
男「人々はここで生活していて……農民とか、停戦ラインに近付くのは禁じられている」
一つの事件を語った。それは彼が許可してベドウィンに境界線を越えて家畜に牧草を食べさせた時の話だ。

p45
男「ジープが近付いて来たので、ベドウィンに羊をこっちに連れ戻せと言ったんだ」
イスラエルパトロール軍と銃撃戦になり二匹の羊が犠牲になった。
エジプト軍はこのイスラエル軍の余計な挑発行為に腹を立てたが―
男「―当局の判断は、撃った弾丸の金を自分で弁償しろという事だった。(実際は羊の所有者が、その分をオレに払ってくれたんだが)」
男「それと、軍曹に昇進する予定だったがそれも止められた」
しあkしその羊事件はここで終わらなかった。というのは―
男「―神に誓って言うが、羊二匹の値段はジープ二台分に相当するはずだ」
簡潔に言うと二台のイスラエル軍ジープを破壊したのだ。
詳しく知りたい。
ジ「そうするとその行為は……明らかに規律違反ですね」
男「そうだ。私が命令した」
ジ「誰か連れて行きましたか?」
男「二人連れて行った」
イスラエル領内でジープをどう処理したのか決して教えてれず、ただUNTSO(国連休戦監視機構)に現行犯逮捕されたとだけ言った。UNTSOは休戦を監視し出来るだけその休戦が守られるように活動するという気の進まない任務をしている。
"運が悪かった、二台目のジープをめぐって戦っている時あの国連監視団が即座にやって来て我々の写真を撮ったんだ。ちょうど機関銃を抱えてるところを(撮られたんだ)」
UNTSOが証拠写真を提出した。エジプトが監督してるはずのパレスチナ軍団が、守るべきその境界線を自ら越えている写真だ。
"この写真は否定できない”
"この写真にははっきり写ってる”

p46
エジプト当局は彼をハーン・ユーニスで懲役刑にした。
そして当代の主人公が監獄で長く待たされている間に、僕らが脚注を付けている歴史の方はあっという間に進んでいく。
イスラエルでは前首相ダビッド・ベングリオンが復職し国防大臣の地位に就いた。軍中佐モシェ・ダヤンと共に強硬路線をアラブ諸国に取るようになった。
1951年2月自転車に乗ったイスラエル陣がパレスチナ人潜入者に殺されたのをきっかけに、ベングリオンとダヤンはハト派の首相モシェ・シャレットを説得しガザ市にあるエジプト軍基地の攻撃を了承させた。
皮肉にも、1954年末から1955年初頭にかけての数ヶ月間、エジプト軍はパレスチナ難民のイスラエル潜入防止にかなり成功しており、難民は越境活動を中止していたのだ。
UNTSO長カナダ人のE.L.M.バーンズ陸軍中尉はこの時期を「記録上最も静かであった」と述べた。
通常の報復を超える物ではないとダヤンはシャレットに約束した。ひょっとしたらエジプト人が10人死ぬ程度の。
しかしダヤンの右腕だったモーデシャイ・バーオンに言わせると……
モ「1955年2月28日に行われた報復作戦は小規模の軍野営地と駅の建物を破壊する事であった」
モ「襲ってすぐ立ち去る予定だった」

p47
戦闘は予想外に激しく、アリエル・シャロン率いる落下傘部隊は八名が死亡、エジプト側は死者数その二倍、一般人も二名死亡した。
一方イスラエル側は南側で待ち伏せをして敵の増兵部隊が戦地にたどり着くのを妨害した。
パレスチナ兵が乗ったトラックを襲撃、
男「道の途中で攻撃を受け全員死亡」
男「全てパレスチナ兵だった*」
*UNTSO指揮官バーンズ陸軍中将によると、兵士22名が殺され13名が負傷、"ほとんどが”パレスチナ人であった。
男「当然このニュースには……心が痛んだよ……」
男「大声を上げて叫んだよ」
男「釈放までまだ16日もあったんだ」
この事件はすぐに反響を引き起こした。翌朝ガザの難民キャンプでエジプト当局と国連に対し暴動が起きた。抗議していたパレスチナ人がエジプト兵に射殺された。パレスチナ人は路上でエジプト軍とぶつかりあった。
男「ほとんど革命みたいだった」
男「人々の圧力を受けてガマル・アブドゥン・ナーセルはこの襲撃事件に対応せざるを得なくなった」
アラブ世界を統一し主導したいというナーセルの夢、それは名声あるがゆえに可能かもしれないのだが、もしこんなずうずうしい襲撃をしたイスラエルが許されてしまうなら、彼の夢はたちまち崩れ去るだろう。
モ「我々の成功はナセルの屈辱なのです」

p48
後にガザ暴動として知られるようになるこの事件にナーセルは強く衝撃を受けた。
彼は二つの重大な決断をした。
第一は―この地域と冷戦構造に大きな影響をもたらすであろう―近代兵器の購入。
この大きな決断は歴史書に十分書かれているので今回は飛ばそう。
第二の決断はアラブ人の怒りを静めつつ全面戦争にならない程度の報復をイスラエルにする事である。ナーセルは新兵器が届く前にそんな危険を冒すわけに行かなかった。
報復手段の一つがこの男だったわけである。
男「さてムスタファ・ハフェツの話をしようか」
(実の所、ハフェツの話は既に始まっていた。<三上注p44参照>以前にパレスチナ軍団が国境線上で問題を引き起こして困るとこぼしていたエジプト人諜報官その人である。
ハフェツは危険なゲームをしていた。
パレスチナ民間人イスラエルに侵入するのは防ぎつつ、同時に、正規軍をイスラエル領内に送り込む任務も任されていたのだ)
"1955年3月13日夜10時オレは独房に一人でいた。足音がきこえたが寝ている振りをしていた。
"突然電灯が点くと、ムスタファ・ハフェツがベッドの枕元に立っていた。
ム「立て!」
ム「服を着ろ!」
"ムスタファ・ハフェツは俺を憶えていたんだ。俺は老兵で―歩兵隊や機甲部隊にいたからね。
"彼について行った……

p49
"何人か待っていが、これはムスタファ・ハフェツが召集したグループだった。彼らが言うには、俺がいればどんな軍事作戦でも出来るということだった。
"ムスタファ・ハフェツが……我々の行う作戦について詳しく説明した。いつ、どこでやるか”
男「で我々は潜入して、うまくやった」
男「作戦は非常に成功した」
男「しかも戦闘死者数はゼロ」
ジ「その作戦を詳しく語ってくれますか?」
男「出来るが、その必要は無いな」
続く数ヶ月エジプト当局は好戦的な闘士を補充してパレスチナゲリラグループを創設した。
"ほとんどが刑務所出身だ
"ムスタファ・ハフェツが集めたのは、越境して作物や食べ物を盗んだ事のある奴とか
"殺人者とかだ。
"ムスタファは集めた125名に訓練を施した”
俺はムスタファに言ったよ。あんたプロの軍人だろ、何でこんな犯罪者ばかりの新兵を組み込むんだって。
男「いい迷惑だ」
男「みんな自分勝手にやりだして、命令は聞かないぜって態度だ」
男「初めはあいつらとよくぶつかりあった」
男「でもそのうち奴等のいかれた行動を受け入れるようになったんだ」
男「狂気の沙汰だ」
男「そうさ!」

p50タイトル「お尋ね者」
この老フェダイーンは扱い難い人間だった。度重なる政治的謀略に巻き込まれ何十年も不正な軍事作戦に関わってきた。話が56年の大惨事まで近付いてたのに、途中からそれを忘れて、心に残ってる他の事件―48年のファルージャ孤立地帯とか、67年のアラブ軍装甲部隊壊滅―を話し出した。
この男に懇願し、取引さえした:OK、56年に関して二三の質問に答えてくれたら―ほんと二つか三つでいいんだ―後は好きな話しをしていい。うっとりして聞くよ。
男は僕が書かないだろう歴史をとうとうと語りだしたけど、もちろん僕は止めなかった。
この男の時代は過ぎ去り、戦いはハレドのような人々に継承される。ハレドはこの老人が戦いを止めてずいぶん経ってから戦い始めた。
ハレドはアラファト率いるファタハに14歳で入った。ファタハはPLOの最大派閥である。

p51
ハレドはイスラエル刑務所では根性のあるところを見せ、パレスチナ人内報者を容赦なく排除した。
ジ「裏切り者を殺すのは辛くなかった?」
ハ「全然」
ハ「もしろ我々の望みとだ言ってもいいかな」
第一次インティファーダ時代、隠れた戦闘部隊がイスラエルの占領に抵抗し石よりも殺傷力のある武器を持っった時、メンバーはハレドのようになった。
ハレドはついにIDFの第一ターゲットになってしまったのだ。イスラエル軍はターゲットを"お尋ね者”と呼ぶ。
自分がお尋ね者になったのはいつか聞いてみた。ハレドが言うには外出している時に自宅へイスラエル兵が押し入り……
父親を盾にして全部屋を捜索し……
三日以内に投降しろとハレドにメッセージを残して去って行った時である。
ハレドは地下に潜ることに決めた。
"両親と握手してから玄関の前に立ち
"ピストルを取り出して空に向って撃った
"母親はワーワー泣き出した。
"あれはみんなへの宣言なんだ、俺がお尋ね者になったという。そこを立ち去って人生の新しいステージを始めた。もう後戻りは出来ない”
それ以来ハレドは逃げ続けている。

p52
遂には、イスラエルが家族に尋問するのを止めさせる為、エジプトへの逃走を決意。
銃火の中仲間三人と有電国境フェンスをよじ登って逃げた。
エジプト当局の文書が無い為ハレドは監禁された。エジプトはイスラエルと平和条約を結んでいたので、彼の好戦的行動を苦々しく思った。暴力的な取調べを受けた時にハレドはイスラエル拘置所の方がまだマシだと言ってしまい
「お前、俺達をユダ公と一緒にする気か!?」
ハ「仲間だと思ってたアラブ人があんな不当な処置をするなんてほんと涙が出たよ」
7ヶ月を13の刑務所や拘置所で過ごした。
ハ「食事に金を払わなくてはならんし、トイレに行くのにも看守に金を払わなければならないことがあった」
リビアに追放されて、そこでPLOの訓練キャンプに入った。
その後スウェーデンやハンガリーといった海外にまで放浪は続いた。
オスロ合意調印後イスラエルは海外在住のパレスチナ人闘士の帰還を許可したが許可リストにハレドの名前は無かった。ハレドはアジトからアジトへと放浪し三ヶ月かけてガザに戻った。
第二次世界大戦に仕掛けられたエジプトの地雷原を抜け……
モーターボートに乗って母国の海岸へ着いた。

p53
ハレドがいなくなって6年が経っていた。
"カラシニコフ銃を受け取り空に向って撃って
"隣人や老女と抱擁した
"玄関先に出て来た父親は俺を見て腰を抜かした”
しかし僕が違う時代のゲリラを探していると知ってハレドは叔父を紹介してくれた。彼なら誰か話の出来る人を知ってるかもしれない。
三人「サラーム・アレイクム」
叔父「アレイクム・アッサラーム」
叔父は陽気な男で1960年代にPLOが主要なパレスチナ人抵抗勢力として出てきた頃、ゲリラ兵だった。

p54
But his day has passed, too, and his struggle reduced to several well-worn stories and a nod to where his arm used to be.
しかし彼の時代も終わり、苦闘もありふれた戦争譚になってしまい
甥の闘志をどう思うか聞いてみた
叔父「抵抗運動には関わるなとアドバイスしてるよ」
叔父「意味が無い」
叔父「我々がヨルダンにいた頃はイスラエルに侵入して、撃って、撤退できたし」
叔父「武器も豊富だった」
叔父「今やカオスだ」
叔父「この戦いじゃ闇に向って撃ってるようなもんだ」
叔父「あっちは機関銃持っててアメリアカのサポートもついてる
ハ「俺を気遣って言ってくれてるけど」
ハ「時代が違うのは俺も同意するよ」
ハ「でも手段が無いから抵抗するなってのはどうかな?」
ハレドの叔父は最近有ったヘブロンでの待ち伏せ攻撃には肯定的だ。イスラエル兵と入植者兵12名を殺した事件だ。
しあkし数日前のエルサレムでのバス爆破に関しては―
叔父「―間違いだ」
叔父「老人?幼い子供?買い物途中の女性?」
叔父「なぜ殺す?」
叔父「たとえ兵士でも投降してるなら殺しちゃいかん
叔父「あんただってユダヤ人に投降した時はちゃんと保護してもらえる」
叔父「イスラエル人女性や子供が殺されたと聞いても全くうれしくないね」
叔父「殺すな」

p55
叔父「世界中が無秩序になってるんだ」
叔父「もうルール無用なんだ」
おっと、でもルールはあるんだ。ここにいるみんなは知ってる。
イスラエルが誰かをお尋ね者だと宣告したら、それは告発で有罪判決で死刑なんだ。全部一まとめってわけ。
ハレドは世間の裏を知っている。
ある夜、自身の経験を僕に話してる時携帯が鳴った。
ハ「アルアクサ準教団の司令官と……ハマスのリーダーもジェニンで暗殺されたそうだ」
そして何事も無かったかのように話を再開した。
戦車が動き出すと彼は反射的に行動する。武器をチェックし、売店でテレホンカードを買い、携帯の電源切れに備える。
ドアからドアへさ迷い歩き、
どこであれ一箇所に長居しないようにしている。内報者が彼の座標を頭上で旋回しているアパッチヘリに伝えるかもしれないからだ。

p56
時々ハレドは午後に立ち寄って一時間ほど休んでいく。
ズボンも脱がずにベッドにもぐりこむ。
ハ「寝なくちゃ」
ハ「もう二年ほど寝てない」
彼が自宅で一晩を過ごす事はほとんどない。
二三度彼の家を訪ねたが、ある時午前二時近くまで話をしてて、彼の息子も一緒に起きていた。
ジ「子供は寝た方がいいんじゃ?」
確かにめったにハレドに会えないのは知ってるけど。何時になろうとも父親が現れた時は起きてきて一緒に遊ぶと言ってきかない。
ハレドの妻は今妊娠している。ハレドによると、妻の親類は出来るだけ多く子供を作るよう妻を励ましているそうだ。
あとどれくらいハレドが生きれるか心配なのだろう。

p57タイトル「抵抗とサルタ」
昨夜イスラエル軍はハーン・ユーニス北部に侵入し、マワシ検問所付近で自爆攻撃を行った男の家を破壊した。今晩はタンデムで自爆攻撃した男の家にイスラエル軍が同じ事をするだろうと予想された。
アブドの友人宅に集まり侵攻のニュースを待っていた時、三人の男がドカドカと入ってきた。
イスラエルの侵攻予定地から逃げてきたところだ。
「サラーム・アレイクム」
三人はハレドと同じように目が赤かった。

p58
接近するイスラエル軍に立ち向かえとモスクのラウドスピーカーから教主が待ちの兵士に向って熱く訴えている。
「息子達よ、何処におる?」
教主にはうんざりだ。
ハレドと同様、この人達も熟練兵士だ。装甲車や戦闘機と戦うなんて無益であり、そんな戦闘に命を投げ出すわけにはいかないのだ。
ハ「悔しいな」
ハ「こっちはヘリが見えないんだから」
ハ「やつらの方が技術的にも圧倒して優勢だ」
男2「あっちの技術はかなり優れていて、何を撃っているのかはっきり分かってるのに、それでも一般人を殺すんだ」
でもパレスチナ人だって一般人を殺してるし、イスラエル軍のレーザー誘導爆弾より人間爆弾の方が狙いは正確だ。
男1「殉教作戦を望む人の名前リストに2000人は載っている。女性でさえ来ている」
男2「ガザに張り巡らされたフェンスのせいで、こちらから攻撃できないんだ」
男2「フェンスが無ければ少なくとも月に一度……」
男2「1分毎に一回かもしれんな」

p59
ハレドはこういうのをどう思ってるだろう。
ハレドが一般人への自爆攻撃に反対しているのを聞いた事があるし
二国共存を主張してるのも聞いたし
家族を安全に養えるなら難民"帰還権”を喜んで譲渡するとも言っていた。
しかし戦争は終わらずハレドは今パレスチナ民族抵抗委員会に所属している。この委員会は占領に強く立ち向かう武装グループだ。
この三人がどの軍事グループに属しているのかは知らない。
けれども、ここ
血に染まり痛ましいほどに貧しいガザ地区の南部
パレスチナのどの地域よりもハードな生き地獄で
―特にここでは―
ハレドとこの人達との間には違いが有るにせよ
―政治的であれ戦略的であれ―
共通の敵と戦ってるんだという前提に疑問は無い。
オスロ合意中の1996年ファタハが指導するサルタがハマスやイスラム聖戦機構を厳しく取り締まりイスラエル市民への自爆攻撃を止めさせようとしていた。しかしハレドはこの検挙取締りに参加を拒否した。当時パレスチナ安全局の職員だったけれども。
"もし参加したら高官の地位を与えると何度も言われたよ”なぜならサルタはハレドが"ハマスやイスラム聖戦機構の情報を沢山知っている”と分かっていたからだ。
それでも応じなかった。だってあの闘志達は"俺の友達”だからとハレドは言う。

p60
別の安全局で働いているアブ・アメドもイスラム闘志の逮捕には決して参加しなかった。
第一次インティファーダの頃―
アブ「彼らと寝食を共にし一緒に投獄され」
アブ「お互い兄弟だと思ってた」
アブ「モスクで礼拝を導いてくれたのはハマスの人だったし」
アブ「彼を捕まえるなんて想像できないよ」
アブ・アーメドは何ヶ月も仕事を離れたりしてその取締りには関わらないようにしているが、サルタの反ドラッグキャンペーンには誇りを持って打ち込んでおり、売人やヤク中逮捕のガサ入れ現場に何度か僕を連れて行ってくれた。
男「ずっと前に密売は止めてるよ」
男「大麻の葉一枚でも俺から貰ったって言う奴がいたら、オワダ広場で首吊ってもいいよ」
しかしハレドはこんな一般的な自治政府の取締りにも参加しようとしない。もっといやな仕事に巻き込まれるのを恐れているのだ。アラブ的表現を引用すると
ハ「一歩足を出したらダンスするはめになる」
でも聞いてみた。君が給料もらえてるのはサルタのおかげでもあるんだよね。
ハ「俺はこの土地の為に多くの事をしてきた」
ハ「サルタの為じゃなく」
ハ「全人生をこの土地の為に捧げてきたよ。何もしないでただ給料を貰ってるやつらと違ってさ」
ハ「俺をそいつらの仲間に入れておいてくれ」

p61
ハレドの戦友アトリーも"お尋ね者”でサルタから給料を貰っている。
彼もまた雇用主を軽蔑している。
サルタはレジスタンス達が奴らの不正利得に頼ってしまい、その代償として、輝く平和に抵抗しないで欲しい欲しいと思ってるんだ。
アトリー「サルタの高官は自分の事にしか興味が無いんだ」
ア「コカコーラ社を利用しガス会社を利用し」
ア「テルアビブで朝食を、ハイファで夕食をして、エルサレムでダンスパーティ」
ア「奴らは上手くやってるんだ」
ア「抵抗運動はいつも普通の貧しい人々が始める」
ア「サルタに圧力をかけるんだ」
サルタは―イスラエルとアメリカから地元の"テロリズム”を一掃せよと強い圧力を受けている―多くの熟練兵士を安全局での仕事や役職に就かせて押さえ込んでいるが、それでもこの二人を飼いならすことがぜきずにいる。
それじゃ、サルタは君の給料をカットするんじゃないの、とハレドに聞いた。
確かにそういう事が一度あったので、じゃ誰かを殺すぞと脅したそうだ。

p62
ハレド「給料が止められたら奴らを撃ち殺せばいい」
ハ「奴らは俺が昔人を殺したのを知ってるからね」
ハ「俺にとって殺人は大した事じゃないしさ」
特にガザ南部、例えばラファフみたいな所ではサルタの影響力は小さい。アトリーが言う"奴らも分かってるけど俺達は数分で町をひっくり返して住民を味方につけることが出来るんだ。人々は俺達を尊敬してるからね”
実際にパレスチナ民衆抵抗運動の仲間がサルタに捕まった時ハレドはデモを手伝いデモ隊は仲間を解放して、仲間が拘束されていたビルを燃やした。
サルタは占領と抵抗運動に挟まれて、役に立たず、危機に瀕している。イスラエルの為の警官役も果たせず、かといって、パレスチナ人の生活と土地を守る役目も十分に果たせていないのだ。
とうとうイスラエルは自分達で"テロリスト”を撲滅する事にし……
パレスチナ闘士は占領者を追い出そうとする。
しかしパワーがあるのはどちらか、勝つのはどちらなのか、明らかだ。
問題は、イスラエルがどこまで勝利を押し付けてくるか、或いはパレスチナ人がどこまで負けを受け入れるかなのだ。

p63タイトル「フェダイーン パート2」
読者諸君、ここでもう一つの敗退、1955年8月のフェダイン作戦の話をしよう。
この老人は血塗られたストーリーに沿う決定的な事件に参加し、その時の記憶が頭の中で渦巻き、そして僕のテープに刻み込まれた。
残念ながら、なかなか核心に触れようとせず……
老「フェダイーンの仕事は攻撃して逃げる事だ!素早く逃げる!」
曖昧にし……
老「攻撃して……こちら側が100人殺されたとしても、敵を二人殺せれば幸せだった」
ためらい……
老「当時は上手くやったよ、神様のおかげで」
ジ「ちょっといいですか?」
ジ「あなたの個人的体験を知りたいんです」
老「自分の事は語りたくない」
老「さて67年革命について話そうか。パレスチナ人革命の……」
もう終わりにして無視しようかと思ったが、彼の息子が僕のフラストレーションに気付いて、父を55年に引き戻した。
ジ「話したくない事が有るなら『イヤだ、それは話したくない』と言って下さい」
ジ「でも出来れば作戦の具体例を知りたいんです」

p64
ジ「一つだけでいいんです」
老「奴らがあなたの本を読んで、あのドイツ人にしたような事を俺にするかもしれないじゃないか。あの男の名前を憶えてるんだが―あのアルゼンチンから連れ戻された男」
ジ「アイヒマン?」
老「アイヒマン!アイヒマン!」
老「アイヒマンの運命を見ろ!」
老「注意せよ!ユダヤ人に抜かりは無いんだ」
老「全てを知ってやがる」
老「全部知ってるんだ!」
老「いつ入ったか!」
老「どこに向ったのか!」
名前は出さないと約束するとすぐ、老人はためらいもせずに語りだした。
老「ある作戦から戻った時偶然、ジープと遭遇した」
老「ジープを徹底的に破壊し、中にいた兵士全員を殺した」
"しかしあっちのラジオでは、イスラエル軍が負傷者は二名だけと伝えていた。ムスタファ・ハフェツが言ったよ―”
ム「お前ら嘘つきだ!」
老「何を言ってる?」
老「殺した兵士から銃を七丁持ち帰ったろ」
ム「だまれ!」
ム「しゃべるな!」
ム「何かを証明したいなら証拠を持って来い」
ム「失せろ」

p65
老「戦友の一人ハムデド・アッバス―サウジアラビアで死んだが―」
アブド「死んだ?」
アブド「会おうと思ってたのに……」
老「ハムデドは道を知ってたからガイド役を務めてくれた」
老「あいつは老練な野盗だったからな」
"彼が言う―
ハムデド「聞いてくれ、労働者キャンプの場所を知っている」
ハ「上官が証拠を持って来いと言ったんだろ」
ハ「心配するな。行こうぜ」
"我々は向った。歩哨にさえ遭遇しなかった。
"テントに入り全員を殺した。抵抗は一切受けなかった”
"あったと言えば一人が立ち上がって出身国を述べたくらいだ
老「おまえトルコ人か?」
老「なんでここに来た?」
老「地獄へ落ちろ!」
"持っていた大きいナイフで耳を削ぎ落とした。
こんな大きいナイフだと削ぐのがとても楽だったよ。

p66
"ムスタファ・ハフェツに削いだ耳を渡した”
ム「よし、信じよう」
この事件が第一次フェダイーン作戦中のいつの事だったかは教えてくれなかったが、イスラエル側によるとこの一週間続いた襲撃で死者15名(兵士5名、一般人10名)が死亡した。
"作戦の最大目的は入植者にパニックと恐怖を広める事であった。移民の流入を防ぐ為だ”
モーディシャイ・バーオンによるとフェダイン作戦は―
モーディシャイ「―イスラエルを破壊するような物とは決して思われてませんでした」
"しかし一般人の意識、特に境界付近の住人にとっては非常に重く取られていた。二三の入植地では引っ越す人々も現れ、代わりに新たな人を入植せざるを得なかったんだ。
"フェダイン闘士には我慢できない、とね”
1955年8月31日夜、イスラエルはフェダインの襲撃に報復し、ハーン・ユーニスの警察署を徹底的に破壊した。
ハッサン・ハマド・アブ・シッダがそこにいた。
部屋は疲れた人達で溢れ、その中にいる疲れた老人の一人のようであったが、約五十年前のあの夜、警官として勤務していたのだった。
彼の記憶がよみがえったようだ。
ハッサン「1955年夏だった。まだ外に座っていられたからね」

p67
"ちょうど午後八時。その時ナーセルのラジオ番組でニュースを聞いていたからね……
「イスラエル軍が攻撃中!」
"ビルに戻り、銃を所有してる者は皆、銃を取った。
"……その時砲弾が落ち始めた。
"保護を求めて中に入ってくる人もいれば、外へ出たい人もいた”
男「中から外へ?」
男「なぜ?」
男「逃げ出したように描かれちゃうよ」
ハッサン「大混乱だった」
"いったいどうやって中から外に出られたのだろう。

p68
"警察署の外にはパレスチナ軍団がいて……
"塹壕に飛び込んだら兵士が4人いた。
"ひどい爆撃さ。煙と砂と灰で何も見えない。
ハッサン「抵抗は微々たるもんだった」
別の男「今日と同じさ。今じゃカラシニコフ銃対メルカバ戦車だもの」
ハ「ライフはあったんだ。5発入りマガジンのリー・エンフィールド」
"そして大爆発……
"一台の戦車が近付く音が聞こえた。出てきて爆薬を仕掛けてビルを吹き飛ばした”

p69
"南側は二階分が破壊された。南側全部だ”
中にいた人に何が起きたか聞いたんだ。
ハ「」あんな大惨事がもう起こらん事を祈るよ」
"中にいたみんなは友人で仲間だった。
"みんな良い奴だった。彼らに神のご加護を。
"瓦礫に潰された死体や足だけが突き出てたり。
"完全に埋まってしまった人もいた”
エジプト人パレスチナ人含め72名が死亡したとエジプト当局は発表。国連監視団はその半分を確認した。
ナーセルはフェダイーン作戦を一旦中止した。エジプト軍とパレスチナ軍はイスラエルの報復攻撃に太刀打ちできないと分かったのだ。
しかしナーセルは今まで以上に、エジプトに有利なパワーバランスを作り出そうと決意していた。

p70
1955年9月末ナーセルはソ連の衛星国チェコスロヴァキアと武器協定を結んだと発表。これはアメリカが武器供与を拒否したからであった。
西側にとっては、ソ連との冷戦構造に新たな火種の舞台―アラブ世界―を生むという結果になった。イスラエルにとっては存亡の危機ではないにしろ、地域支配の優位性に水を差すものと思われた。
総選挙後ベングリオンはシャレットの跡をを継いで首相になった。
多数を占めた強硬派は攻撃を仕掛けてエジプトににソ連製の近代戦闘機や戦車を入手させまいと決意した。
バーオンによると"多くの多くの人や高官が予防攻撃せよとうるさく言っていました”しかしベングリオンには米国、特に英国の反応を恐れていました。英米はフランスと条約を交わし中東域を見張っていたのです。
バーオンは言う。ベングリオンは
「予防攻撃、先制攻撃には強く反対しました」
"しかし、報復行動を拡大し、ナーセルから戦争を始めさせるか、或いは少なくともどちらが始めたか曖昧にしてしまおうというダヤンの提案には同意しました。
"でも上手く行かなかった”
ガザやシナイ半島へ何度も攻撃し多数のアラブ人を殺し、エジプトがその頃相互防衛条約を結んだシリアへ大規模な攻撃をしたにもかかわらず、ナーセルはその手には乗らなかった。

p71
戦争を始められなかったのでイスラエルは防衛的体制に戻った、とバーオンは言う。
イスラエルは既に兵器をフランスから輸入しており、その兵器性能はエジプトが注文したソ連製より勝っていた。
比較的落ち着いた状態が続いた。エジプトがガザからの潜入を止め、停戦境界線付近での狙撃事件があったにもかかわらず、何ヶ月もイスラエル側に死者は出なかった。
しかし1956年4月初め何度か衝突がありエジプト人一名、イスラエル兵四名が殺された。
4月5日には致命的事件が起きた。アメリカ陸軍中佐R.F.ベイヤード(UNTSOエジプトイスラエル停戦連絡委員長)によると、イスラエルがエジプト軍基地に迫撃砲で砲撃したのをきっかけに全境界線域で迫撃砲の応酬が始まった。
エジプト側が"キブツの二三箇所に迫撃砲を打ち込んでから戦闘は激しくなり始めた”とバーオンは言うが、ベイヤードはどちらが先に一般人をターゲットにしたのかUNTSOには分からなかったと報告している。
いずれにせよ、その日イスラエル市民5名と兵士2名が負傷、イスラエルの展望を後押しする事になった……
バーオン「ダヤンはほとんど即座に対応しました」
バーオン「見境無くという意味ではありません」

p72
"彼は理性有る人間です。怒っていたとは思いますが:'くそったれ!キブツに砲撃ならターゲットは一般人じゃないか。目に物見せてやる!’
"そしてガザ攻撃命令を出しました。
"多くありません。
"集中攻撃を一回か二回でした
ベイヤードの報告によると"ガザ市が一番込み合う時間にイスラエル軍の重迫撃砲が大通りに沿って着弾。”イスラエルは"まず一二度一斉射撃を浴びせてから数分待機し、人々が集まって来た頃に戻って来て、まとめて殺すという常套手段”を使った。
パレスチナ一般人約50名が殺され100人が負傷した。
イスラエルは"120mm迫撃砲をガザの軍事目標に向けて撃った”と主張するが、ベイヤードに言わせるとそれは真っ赤な嘘だ。エジプト軍基地は1kmも先にあるのだ。
ナーセルはこの攻撃に即対応した。
フェダイーンを再開したのだ。

p73
老「病院に行くと負傷者や死者で溢れていた」
老「我々は急いでグループを結成し……」
老「ターゲットを決めてイスラエルへ侵入した」
フェダイーン襲撃の二回目は1956年4月7~12日。10名か11名のイスラエルが犠牲になったが、その中にはモシャヴ・シャフィールにあるシナゴーグ<三上注ユダヤ教礼拝堂>の襲撃で殺された子供もいた。
フェダイーン側の損失も大きく、国際的圧力の高まりによりナーセルがこの作戦を中止したため、イスラエルはエジプトとの全面戦争に突入しなかった。
ナーセル!
その名前を言う度にこの老ゲリラは身震いした。
老「ナーセルを見ると怖くなる!」
老「ダークな奴だ!」
老「腹黒いんだ!」
この男は言う。フェダイーンがイスラエルに行うわずかな攻撃を利用してナーセルは自分に光を当ててアラブ人にいい顔をする。
老「ガマル・アブドゥン・ナーセルは名声の為に我々を搾取し利用する」
老「エジプトのリーダーが目指す所は我々と違う」

p74
思い出して欲しい。最初のフェダイーンは犯罪者や、このような老練ゲリラ「であり、勝手にイスラエル攻撃をしてエジプト当局に起こられた経験も有る人達だ。
老「これは秘密だが……今回初めて話すが」
老「エジプトは俺達を亡き者にしようと目論んでたんだ。トラブルメーカーだと思われたんだな」
ナーセルには強すぎるパレスチナ人ゲリラを養成する気がなかったのかもしれない。結局のところゲリラの忠誠心はエジプトじゃないんだから。
"イスラエル装甲車によく追っかけ回されて……対戦車用ライフルを要請した時も何度も何度も何度も断られた。カール・グスタフライフルじゃ、あんな車には歯が立たん。
"ムスタファ・ハフェツは言ったよ。
ム「俺はお前らの味方だが、要求には答えられん……俺はエジプトの指示に従ってるんだ」
"時々ムスタファ・ハフェツはイライラしていたな。攻撃を受けやすい所に基地を設置する事があったから。それでもエジプト当局はムスタファにやらせた。
しかハフェツがエジプト人上層部とパレスチナ人だらけの一団との間で板挟みになってたかどうかなんてイスラエル人には関係の無いことだった。1956年6月11日イスラエルは手荷物爆弾でハフェツを暗殺した。
"遺体をカイロに搬送し埋葬した……とても泣いたよ。ムスタファの母親も一緒に泣きながら俺が泣くのを止めようとした。列席した女性達より我々は泣いていた。ムスタファは俺達にとても優しかったからね”
老「ムスタファが死んで我々も死んだ」
老「彼の死後は語るべき作戦は無かった」

p75
ハフェツ在職中にフェダイーンに参加し、この老兵が言うようにハフェツを助けた新兵グループの中には除隊する予定の者もおり、規律がゆるんできていた。
"規則の多くは破られた。
"トラブルになって面倒を引き起こした。
"金を盗み、女性を襲った。
"人々から悪人の目で見られていた”
彼からすると、エジプト人将校部隊だって最高幹部から腐っていた。
"アブデル・ハキム・アマーは女性と大宴会を開いて酔っ払っていた。こんな格言が有る、:'家長が太鼓を叩いてるなら子供が踊るのも仕方が無い’
"だから他の将校も同じだ
"酔っ払いで
"クスリをやってる奴らさ”
イスラエルは第二フェダイーン作戦の報復をしてくると確信していたそうだ。
老「ユダヤ人の対応は厳しくなるだろうと思っていた」
老「何度も声を上げて人々に警告したよ'気をつけろ’って」
老「'眼を覚ませ’って」

p76
タイトル「共謀」
国家間で憤怒渦巻く戦争が繰り広げられている時に、血塗れの闘争神が自国民にわずかでもいいから敵を思いやるようにと導いたりはしない。
1956年4月30日ガザ人潜入者に殺されたキブツ民間人ロイ・ロスバーグを称えて、イスラエル戦士のヒーローモシェ・ダヤンはイスラエルの考えだけでなくパレスチナ人勢力についても語った。
まずその前にダヤンの右腕モーデシャイ・バーオンに話を始めてもらおう。
バ「……モシェ・ダヤンは私と共にガザ境界線側にあるナハル・オズという村落を訪問した」
バ「そこで地元の若い司令官に出会った」
バ「村では4組の結婚式を準備していた」
バ「司令官は既に結婚していて妻は妊娠中だった」
バ「美男美女のカップルだった」

p77
彼らの家でお茶を飲み、素晴らしい一日だった。
我々はテルアビブに戻ったが、その翌朝、司令官は殺された。
"ダヤンは葬儀に参列する為村に戻って来て有名なスピーチをした”
ダ「本日は殺人者を責めないようにしましょう」
ダ「彼らの憎悪に対して何が言えましょうか」
ダ「この八年間ガザの難民キャンプにいた彼らの目の前で、元々は彼らやその祖先が耕してきた土地と村を、我々は接収してきました」
ダ「境界線を越えて……憎しみと復讐心が怒涛のように押し寄せております」
ダ「平穏な日々に我々が警戒心を緩めた時に……」
ダ「偽善的な大使が武器を捨てなさいと訴えて我々を騙そうとする時に、彼らは復讐してくるでしょう」
ダ「我々の周りに住むアラブ人の生活に憎しみは充満しています。この憎しみを恐れずに直視しましょう……」
ダ「我が世代の宿命なのです」

p78
ダ「これは我々が選んだ道です」
ダ「強く堅く武装しないと剣は手から落ちて、我々の人生はそこで終わってしまうでしょう」
バ「これでお分かりでしょうが、ダヤンの認識は、パレスチナ人がする事にはそれなりの理由があるけれども、我々は自分達を守らなくてはならない、というものでした」
バーオンによると、ダヤンはパレスチナ人の潜入を完全に阻止してやると決めていました。つまり戦争です。
バ「ダヤンは現在の状況を変えて、ガザ地区をj征服したかったのです」
戦争を起こすのには失敗したが、皮肉にもチャンスはその後にやってきたのだ。
読者諸君、極貧の難民が住み激しい襲撃が行われている小さな土地が地中海の最南東端にあって、我々がそこに注目している間に、イギリスとフランスのずる賢い奴らがある計画を目論み、この地域をひっくり返そうとしていたのだ。
英国首相アンソニー・イーデン
イギリスとフランスはそれぞれの思惑からエジプト政府を倒そうと考えた。
フランス首相ギー・モレ
フランスは自国植民地アルジェリアでナーセルが多額の資金提供をして抵抗運動をサポートしている事に腹を立てていた。
それどころかフランスはイスラエルに近代兵器を供与し、エジプトと問題を起こさせようとしていた。もしかするとイスラエルに大規模なエジプト攻撃をさせようとしていたのかもしれない。

p79
イギリスはナーセルを引退させようとマークしていた。イギリスの属国的イラク政府とイギリスが支配する石油利権にとって、彼の愛国主義、反植民地的方針、汎アラブ同盟は危険な兆候だったのだ。
それに加え、イギリスが協定を結んで長期に渡る駐留を終えエジプトから撤退した後、1956年7月にナーセルが海外資本のスエズ運河を国有化した事にも怒っていた。スエズ運河はイギリスが石油輸送に使うメイン水路だったのだ。
ナーセルがこんな大胆な手段を取った背景には、エジプトがソ連圏と武器取引した事にイギリスそしてアメリカ首脳が怒り、報復手段として、大掛かりなアスワンダム建設のために約束していた資金提供を反故にした、という事情があったのだ。
前述のようにイスラエルはエジプトとの戦争が避けられないと考えていた。
バ「イスラエルは当時、50年代を通してですが、ナーセルが遅かれ早かれ攻撃してくると予測していました」
そしてイスラエルはエジプトに先制攻撃をしたがっていた。
こうして、エジプト政権を巡るイギリス、フランス、イスラエルの利害は一致した。
三国は綿密な策略を仕掛けてナーセルを打倒しようと、フランスのセーブルで秘密議定書に調印した。これが悪名高い三国間共謀である。

この計画では、まずイスラエルがガザ地区とシナイ半島に進撃する。主な目的はフェダイーンの壊滅だ。
さらにイスラエルはスエズ運河付近に大量の落下傘部隊を降下させる。
国際船輸送保護の名目で英仏はエジプトとイスラエル両軍に運河地域から10マイル<三上注約16km>撤退するよう勧告して……
何らかの解決に至るまで英仏派遣軍の一時的スエズ運河駐留をエジプトに受け入れさせる。
イスラエルはその"最後通牒”に応じるが、ナーセルはエジプトの主権が侵されるような勧告を絶対拒否するはずである。
そこで英仏軍がエジプトを攻撃開始する。
作戦は計画通り始まりスムーズに進行したが、ここで別の話が関わってくる。アメリカ政府が外交介入してきて、その結果、英仏の威信は大きく低下するのである。
アメリカ大統領ドワイトDアイゼンハワー
そして保護すべき"社会的ゴミと浮浪者”<三上注p36イスラエル外務省のレポート参照>とやらが後に残される。

p81タイトル「侵攻」
イスラエルのエジプト攻撃じゃ1956年10月29日に始まった。
11月2日イスラエル軍はガザ地区に侵攻。
ファティマ・アブ・サレムは当時19歳二児の母でハーン・ユーニスに住んでいた。
ファティマ「エル・アリシュ*への道は塞がれ、エジプト兵は食料が手に入りませんでした」
*エル・アリシュ:ラファフの約50km西にあるエジプトの町
"エジプト兵は鶏かごを出して人々に食べ物を入れてくれと頼みました。厳しい状況です。誰も食料は持っていませんでした”
"エジプト軍は完全な混乱状態で、兵士は藪に逃げ込み制服を脱いでいました”
警官だった彼女の夫もそこに加わりました。"夫も制服を持っていたので怖かったのです……

p82
海岸の戦艦からキャンプに向けて砲撃が始まりました。戦闘機も爆撃を始めたので、夜になってから私達は隣人達とハーン・ユーニスを出ました。他の人々も同じでした。
"私達は歩いて木々の間を抜け、南下してラファフに向い、そこで妹の家にやっかいになりました。
サレ・シブラクはエジプト軍のパレスチナ人でハーン・ユーニスとラファフの交差地点に駐留していた。
サレ「我々は約55名」
サレ「カール・グスタフ銃を持ってた」
サレ「機関銃とキャノン砲もあった」
サレ「でも自分達を守る戦車は無かった」
"戦闘機や戦車には何も出来なかった”
サレ「今と同じだ」
サレ「カラシニコフ銃しかないような男がアパッチヘリになにが出来る?」
"皆殺られ出した。目の前で三ツ星階級のエジプト人将校が死んだよ。ハナフィという名だった……俺が土をかけたよ……

p83
"撤退命令を受けて……皆自宅に戻った”
その頃我が老フェダイーンはチームを連れてハーン・ユーニスに急いで戻って来ていた。イスラエルに入ったが塞は既に破壊されていたのだ。
老「戻ってみるとパレスチナ軍もエジプト軍もいなかった」
老「我々はたった11人のグループで……」
"イスラエル軍の数は圧倒的……戦車の大群が侵入してきた。
"カール・グスタフ銃で防衛するなんて正気の沙汰じゃない
"だから我々は海岸へ脱出し、服を着替えて逃げた”
ジ「ガザ侵攻でフェダイーンは死傷者がでましたか?」
老「56年の侵攻ではフェダイーンは一人も殺されなかった」
老「皆逃亡した」
老「エジプトに行った者もおるし、ヨルダンに向った者もおる」
"やられたのは町にいる若者達だった”
老「(イスラエル軍が)若者達を家から引きずり出し、壁に並べて、射殺した」

p84タイトル「1956年11月3日第一部:ハーン・ユーニスのタウンセンター」
前回サレ・シブラクが戦場から逃げたところまで話したが、
サレの家族と親類はハーン・ユーニスの中心にある叔父の家にいた。
サレ「町の中心部だったから、そこから離れたかったんだが、親戚が―」
親戚「ここにいろ!」
親戚「ずっとお前を探していたんだよ」
翌朝、イスラエル兵が道路にいるのが見えた。
この状況にもかかわらず、いとこの一人は自宅に帰ろうとした。
サレ「だめだ、見ろよ。あそこの交差点にいるのはユダヤ人だ」
いとこ「いや、ユダヤ人じゃないよ」
サレ「俺を信じろ。あいつらユダヤ人さ」
"いとこは彼らの方に歩いて行き、100メートルぐらいしたら、手を上げろと言われて……
"で、いとこを連れ去った”

p85
サレ「しばらくすると、イスラエル軍が……ドアをノックして、人々を集めて、家の中で撃ち出した」
ジ「でもどうして分かるの?」
ジ「見てたの?それとも聞こえた?」
サレ「イスラエル軍がドアを蘭も棒に叩いたり蹴ったりしてるが見えた」
サレ「銃撃音も聞こえた……」
サレ「人々が家から連れ出されるのを見ていたよ」
"制服は脱いでいたけど、武器はあった。奴らを撃とうかとも思ったんだが、父が言った、
父「おい、今度はフェダイーンになりたいのか?」
"奴らが我々の所へやって来た……(先にライフルと手榴弾はベッドの下に隠しておいた)
"入ってきて……女性を外に出し、
"子供と……老人も外に。
"父も女性達と一緒に外に出された。

p86
"家に残されたのは……
"俺と、
"兄と、
いとこ二人……”
手を挙げた途端、奴らは銃弾を浴びせてきた。
"30分か45分か、俺は意識を失った……部屋の中で皆は死んでいた。
"起き上がろうとして倒れた”
サレは三箇所負傷し、銃弾が前腕を打ち砕いた。
今でも上手く腕を動かせず、手のひらは十分に開かない。
射殺の翌日、家族の女性陣はサレを地元の病院に運んだ。
そこから更に赤十字がガザ市の病院へ搬送した。
一足先に家を出てイスラエル軍に連行されていったいとこはハーン・ユーニスの名所であるお城の近くで死体となって発見された。

p87
当時ミスバ・アシュル・アブ・サッドニは万屋を経営しておりハーン・ユーニスの中心地ジャラル通りで生活していた。今、話を聞いているここから数十メートル離れた場所だ。
ミスバ「両親、妻、二人の息子といましたが……」
ミ「妹と妹の夫……」
ミ「兄と兄の妻……」
ミ「サブリ。アシュルという男もいました」
ミ「サブリは死ぬ事になるのですが……」
ミ「皆、うちに来て恐怖に震えていました」
"突然ドアを叩く音がしたので、玄関の方に行くと、既に蹴破っていました”
「手を挙げろ!」
「手を挙げろ!」
兵士がジャラル通りに住んでいる人々を路上に連れ出していた。
"男性と女性を分け、至る所で一列に並ばせていました。
"隣人も並ばされて、我々と同じ所に集められました……”
ミスバは男性30人ぐらいのグループに入れられた。
"少し北へ
"銀行の方へ移動しました。
"当時は銀行ではなく歯科医院でしたけど”

p88
ミスバは1分も離れていない現場に我々を連れて行き、どう並ばされたか説明した。
今はATMがあって人々が並んでいる場所だ。
政府労働者に先月分の給与が振り込まれたばかりなのだ。
"四丁のブレン機関銃、重機関銃が置かれていた”

p89
さらに一人の兵士がエジプト製ベレッタ短機関銃を持って立っていたそうだ。
"この兵士は全く撃たなかったと思ってたんだが、七年後にベレッタの弾丸が私の脚に見つかってね……
"少し横にずれた。逃げようと考えたんだ。
"射撃が始まった。
"私は倒れて、その上にまた誰かが倒れてきた”
ミスバ「臭いが痛かった」
ジ「何の臭い?火薬?」
ミ「そうだ、激しい銃撃だった」
ミ「鼻が痛かった」
ミ「奴らはたくさん撃ったからね」
"そして静寂が訪れ、
"再び弾倉を装着する音が聞こえた。

p90
"やつらは4回繰り返した”
ミ「顔を撃たれ、頭蓋骨が砕けた者もいたよ。なにしろ4回もだからね」
ミ「ひどい銃撃だった」
"コーランを唱えていると……
"私の魂は空に向って上昇して行った。
"4回目の集中射撃中、背中に50kgぐらいの物がミナレット<三上注イスラム教寺院に付属する高い塔>から落ちて来た様な衝撃を受けた”
銃撃がミスバのお尻から入り尾骨を貫通した。ミスバは頭部とかかとにも怪我を負った。

p91
"その後しばらくすると……誰かの声がした、
「誰もいなくなったぞ」
"立ち上がって……
"私の兄
"この男はファエク
”そして私
"他にも生きている者はいたが、負傷しており、その後死んだ。
"兄は何箇所もやられていた。脚と腕と腹も”
"私達兄弟はそこを離れて穴の開いた地面に隠れたが、近くにはイスラエル兵がいた”
兄「行こう。走るんだ」
"本当は行きたくなかったが、兄は走り出した……
"私も走ろうとしたんだが数メートルおきに倒れた
ミスバ「もう走れない。息子達を頼んだ」
ミ「俺はもうだめだ」

p92
"兄は……海岸へ向った。途中ロバの荷車を引いている男を見つけマワシ*まで連れて行ってもらった。
*マワシ:ガザ沿岸の狭い地域
"三ヶ月か四ヵ月後、兄は銃撃の負傷が元で死んだ”
ミスバはようやく難民キャンプの入口までたどり着き、サボテンの中に身を隠していたが、怪我の痛みに耐えられなくなっていた。
"もう何があってもいい……誰かが来て俺を撃ってもいい”
"で、俺はイスラエル兵に見つかるのを覚悟して目の前にある道路に向ってはいずりだした……
しかしながら、危険を冒して親戚の男性を探しに来ていた女性達がミスバに気付いた。
ミスバ「水を下さい」
その後すぐ、家族がミスバを見つけて……
ベストを尽くして傷の手当てをした。
「コーヒーの粉を傷口に塗り込んで」
「その傷口に熱したアイロンを押し付け……」
三日後、ガザ市内の病院に運ばれ、4ヵ月に渡って4回の手術を受けた。

p93
タクレーム・アルバッタはミスバと同じ通りの住んでいて当時は少年だった。
タクレーム「私達はここの下に住んでいました」
タ「母、父、5人姉妹と4人兄弟と義姉」
タ「義姉には子供が二人いました」
"家にいれば、何も起こらないとイスラエルのラジオが告げていました。
"ハーン・ユーニスはイスラエル軍の手に落ちた最後の場所でした。
"1956年11月3日イスラエル軍がやってきてドアを叩き、教主だった父が下に降りてドアを開けると……
"(教主の)服を着て……頭飾りを付けていいか……尋ねました。
"だめだと言われました
"諦めろ
"全員下に来いと言われました”
タ「両親のいる前で兄のナデードが撃たれました」
"彼は二十歳でした。
"学生でエジプトのアル・アザール大学に通っていました。宗教学校です。
"学校が休みだったのです”

p94
ジ「長男ですか?」
タ「いいえ次男ですが、長男も死にました」
タ「まもなくです」
"近隣の人達は、私達もですが、私の家の前に集められました……
"そこから男性を引き抜きました。
"義姉は……身分証を出して夫のハッサンは教師であると(示して)、英語でも説明しました。
義姉「夫は兵士でもゲリラでもありません」
"でも無視されました

p95
"イスラエル軍は男性達を通りの裏側に連れて行き、今パレスチナ銀行のある所ですが、銃を撃ち始めました。
"銃撃音が聞こえ、女性達は泣き叫びました。
"銃撃は十時頃始まって私達は2時まで路上に置かれました。
「家に戻れ!」
"一時間後……近所の玄関を叩いて廻りながら命じました
「片付けて来い!」
"残された男性陣は怖がっていたので、女性陣が死体を取りに出ました。
"私の姉妹ともちろん義姉も、隣人達も”

p96
タ「兄弟二人が安置され、殺された隣人二人も運ばれてきました」
タ「家の中に四人の死体が並びました」
"父が祈りを捧げました。他に出来る人はいませんでしたから。
"翌日埋葬が認められました”
ファリス・バーバクは当時14歳ハーン・ユーニスのマムルーク城付近に住んでいた。
イスラエル軍が家に乱入してきた時を思い出す。
ファリス「奴らはドアを破って侵入し銃を撃ちました」
"男性陣は部屋に隠れていました
「出て来い!」
「出て来い!」

p97
"男性陣は一列に並ばされてお城へ連れて行かれました”
ファリスともう一人の少年は連れ出された青年達とイスラエル兵に走ってついていきました
ジ「あなたは止められなかったのですか?誰か女性に'行っちゃだめ’と言われたりは?」
ファ「当時は子供だったし、ただ走っただけですから」
ジ「男性陣は何か言いました?」
"何も”
ファ「(兵士に)戻れと言われ……帰った振りをしてまた戻ってきました」
ファ「青年達はお城の側に連れて行かれて……」
ファ「私は城には向わずに」
ファ「家に帰りました」
30分か45分後外出禁止令中だったが、ファリスは水を汲むため家から出た。
"水道の有る所に近付いた時、横を見ました。
"死体の山が見えました

98
"百人以上の死体が……
"壁づたいに
"城壁の端から端まで……
"私は甕を置きました”

p99
現在は街広場の一端となっている、この14世紀の廃城に沿って歩きながらファリスは約50年前を追想する。

p100
"親戚のアルハッジ・アブドゥラの家に行きました。アルハッジの家は現場にとても近かったので。
"おじいさんは妻に担架を持ってくるよう言いました。
"こっちはアブデル
"これはアンワル
"こっちはアブド
"おじいさんは顔を確認していました”

p101
昔は広場で今は市場になっている所を通り抜け、ファリスが当時一体ずつ死体を運んだという墓地へ連れて行ってくれる。
数十年経った今、どんな気持かファリスに聞く。
ファ「あの時の子供に戻った気がするよ」

よくある家族墓地―ファスゲヤと言われる―に着いた。ここにはファリスのいとこが埋葬されている。
"当時は一区画に何百体もの死体があって、個別に埋められなかった。死体を急いで埋める必要があったからね

p102
"おじいさんは70年生きた経験から
"(家族の)女性達が来て息子や兄弟を見たら彼女達は泣いてしまうと思った。
"だからおじいさんは彼女達が来る前に最善を尽くして埋葬した。
"でも二三体しか埋めないうちに女性陣がやってきた。そして私達を手伝ってくれた”
親類の遺体は数ヵ月後に埋め直された。
ファリスは親類の名前を思い出そうとしている。
12人のうち8人は憶えているのだが。

p103
タイトル「1956年11月3日第二部:ハーン・ユーニス難民キャンプ」
アブドゥラ・アルホラニ博士とガザ市にある彼のオフィスで面談。
氏は今でもOLO職員だが、オスロ合意に反対して実行委員の座は降りていた。
難民の要求を無視しようとするパレスチナ人指導部を厳しく批判している。
彼自身が難民である。
1956年当時教師をしており年は若く、母は一人息子である氏とハーン・ユーニス難民キャンプに住んでいた。
イスラエル軍が町に侵攻した11月のあの日、氏は隣人達と小屋に隠れていた。
アブドゥラ「危険が迫った時には動物でさえ仲間を捜し求めます。人間も同じです」
アブ「ですから人々はお互い集まってあちこちの家に身を潜めていました」
アブ「それが原因で多くの家族は息子を一人以上失ってしまいました」
アブ「みんな一緒にいたからです」

p104
"身を寄せ合って座っていると銃声が聞こえ
"叫び声が聞こえました
"恐れているところに彼らがやってきました。
"三部屋が入られたのですが、我々はそのうちの一部屋にいました”
ジ「我々?」
ジ「だいたい何人でしたか?」
アブ「記憶を……」
アブ「たどると……」
アブ「一人だけ憶えてます。私と同じ教師で名前はアッタ・アルオスタツ」
アッタには三人か四人姉妹がいて、彼が連れ出された時、母親と姉妹は泣いて叫んでいましたが、兵士達は聞く耳を持ちませんでした”

p105
アブ「我々はキャンプの壁に沿って立たされました」
アブドゥラは立ち上がり、
数歩歩いてオフィスの壁の前に立った。
アブ「我々は10人、」
アブ「11人、」
アブ「13人、」
アブ「よく分かりません」
アブ「我々は手を挙げて」
アブ「イスラエル軍は後ろにいます」
アブ「彼らは銃を構えて、機関銃です。我々を殺すために」
アブ「壁はここで終わりでした」
アブ「そこから細い道路です」
アブ「ここが一番最後ですが、立つはずではなかったのです」
アブ「でも押されて……」
アブ「ここに来ました」
アブ「たまたまです!」

p106
"人間はいかに命を大切に大切にしているか
"生命が何よりも強い時もあるでしょう
"生きたいという願いはとても強いのです”
"すぐ考えました、”
"どうやって逃げるか?”
"来る途中、たくさんの人々や友人が壁の所で殺されていました……。ですから自分達の末路が分かっていました。
アブ「ふいに」
アブ「何も考えずに」
アブ「後先考えずに」
"走り出していました。
”飛び出して、
"走り出しました……
"全人生をかけて必死に走りました。
"イスラエル兵が銃を撃とうとするまでに50メートルは走ってました。

p107
"射撃が始まりましたが、私はすぐ横道に入りました。
"海岸まで走りました。
"無我夢中で
"振り返らずに。
アブ「後に分かったのですが、あそこにいた(他の)人々は残念ながら全員殺されました」

p108
"兵士が立ち去ってから母親や姉妹や子供が出て来て息子や兄弟を捜しました。
"母は三つか四つ以上のグループを調べて私を捜し、キャンプ中を泣いて廻りました、
母「アブドゥラはどこにるの?」
"二日後に私が戻ってくるまでずっと。”
アブ「戻った時には殺された人々は埋葬され全てが終わっていました」
アブ「しかしどの家からも泣き声が聞こえていました」
アブ「友人を訪ねて廻りましたが」
アブ「友人の多くは亡くなっていました」
オンム・ナフェツ婦人は当時若くアブドゥラ・アルサッドニと結婚しており、子供が三人いた。
オンム「今でもはっきり憶えているわ。決して忘れられません」
彼女によると11月3日の朝、少年が町から注意を呼びかけながら走ってきた。
少年「若い男性がいるなら逃げるように伝えて!」
少年「みんな殺されてしまう!」

p109
しかしアブドゥラと三人の兄弟はキャンプに残り、家族と寄り集まっていたところにイスラエル軍がやって来た。
"玄関前に二人のイスラエル兵が立ち、別のイスラエル兵が入ってきて男性を連れ出した。
"兄弟のうち最初に出たのはイブラヒム。
"殺された。
"次はサブヒ。サブヒは子供を腕に抱えていました。
"サブヒは撃たれて倒れ、その時に子供も撃たれました*
*怪我をした子供は兄弟のおいで、足を失う事になる。
"次がアブドゥラとハミスでした。私は叫びました”
オンム「私の夫です!」
その時ハミスは逃亡した。
”壁を飛び越えて逃げました。
"アブドゥラは……逃げようとしましたが捕まってしまいました。
"玄関の外に連れ出されたアブドゥラは脇を撃たれました”

p110
オンム「イスラエル軍はアブドゥラを殺して、ハミスを追いました」
"サブヒは翌日まで生きていました。意識があり、兄弟の事を聞いてきたので、生きてるよと伝えました……”
サブヒ「死んだのは分かってる」
オンム・ナフェツによるとサブヒは治療の為にラファフに連れて行ってくれと言ったので女性陣が抱き起こしましたが―
サブヒ「戻して……寝かせてくれ……」
"15分後サブヒは死にました。
"埋葬する為に遺体を運ぶ物を取りにUNRWAに向いました。外出禁止令が出ていたので、撃たないでという印として白いハンカチークを持ってね。
"病院の前に立ってた兵士が言いました、
兵士「どうした?」
オンム「あなた達に殺された人々を運ぶ物が必要です」
兵「帰れ。家のドアを外して使え……」
兵「外出禁止令解除は一時間後だ」

p111
"女性陣や妻達が遺体を移動しました。
"イブラヒムを一度落としてしまいました”
オンム「靴を脱がして埋葬しました」
"炉から灰を取って自分の手で家に塗りました……
"家を黒くしました”
オンム「神よお許し下さい」
オンム「三日以上喪に服してはならないと、分かってるのですが」<三上注イスラム教では女性は誰が死んでも三日以上喪に服してはならないとされる。夫が死んだ場合は4ヶ月と10日喪に服す>
オンム「子供達が成長しても灰は残っていました」
オンム「いったい何が出来ましょうか?」
オンム「神が望んだ事なのですから。自分の土地を離れてここで殺される事であっても」

p112タイトル「記憶と絶対的真実」
ここまで一連の個人的回想を通して1956年11月3日ハーン・ユーニスで行われたイスラエル軍によるパレスチナ人大量殺戮の話しを見てきた。

証言によれば、男性は家で銃殺されるか、外で壁に沿って並ばされて撃ち殺された。
さてそれでは今までの話の土台をゆすってみようか。
言うまでも無いが、記憶は時と共に変化するものだし、ここまで聞き集めてきた記憶証言は何十年も昔の話についてである。
記憶は角が削れて、曖昧になり、増えたり減ったりする。
例を一つ取ろう、オンム・ナフェツの話だ。
彼女の話はキャンプの老人達にはよく知られている。特に悲劇的だったからね。
兄弟四人が引きずり出されて射殺された。
夫もそのなかにおり、殺されてしまった。
兄弟の一人ハミスは逃亡した。

p113
ハミスは今でも生存している。
彼の記憶と比較してみると面白い。
例えば、オンブ・ナフェツは、一人一人が玄関を通る時に撃たれたと記憶しているが、ハミスによると、兄弟が整列させられてから撃たれたと言う。
別の目撃証人のインタビュー、話してくれたのはハミスのおいアブ・アンター・アルサッドニ当時7歳だが、整列させられた方に同意する。*
*アブ・アンターの父は5人目の兄弟だが当時エジプトにいた。
実際アブ・アンターの説明は、兄弟が壁に並ばされた順番についてもハミスの話と一致する。
ではハミスの話しに入ろう。
兄弟が撃たれている時に、どう逃げたのか説明する……
ハミス「走れ、サブヒ!」
追いついた兵士をどのように押し倒し、
どうやって壁を乗り越えたか……
イスラエル兵に銃撃されながらどうやって逃げたのか。
アブ・アンターもこの通りだと言う。ハミスはサブヒに逃げるよう言ったそうだ。
アブ「そしてハミスは言いました'ついて来い、サブヒ!’」

p114
ハミスが言うにはキャンプ郊外の藪に夜9時まで隠れていて―
"住宅の間を抜けて自宅に戻りました”
ハミスはサブヒが苦しみながらゆっくりと死んでいったと語る。
ハミス「サブヒが言いました―」
サブヒ「病院に連れてってくれ」
サ「もうだめだ」
サ「死にそうだ」
"私はメッキのドアを剥がして上にマットレスを敷きました”
ハ「サブヒはこんなふうに横たわっていて、私達はマットレスを彼の横に置きました」
ハ「サブヒは自力でマットレスに乗ろうとして」
ハ「こういうふうに体を起こしました」
ハ「ゴブゴブ咳き込み……」
ハ「お腹に銃創がありました……」
ハ「だんだん弱ってきて、こう言いました」
サ「だめだ」

p115
続いて、ハミスが言うには、サブヒは家族を指差し
サブヒ「家族を頼む」
ハミス「そして死にました」
ハ「あの時の事はいつでもビデオを見るかのように思い出せます」
サブヒが死んだ時のハミスの記憶はだいたいアブ・アンターやオンム・ナフェツの話と一致している。ある決定的な一点を除いて。
アブとオンムによると、ハミスはそこにいなかったのだ。
アブ「何日も何日も経って知らせが届きました……ハミスおじさんはラファフに着いて無事だと。ハミスおじさんは二ヵ月後にハーン・ユーニスに戻ってきましたが、もう全ては落ち着いていました」
オンム「ハミスは四ヶ月もいなくなってました……ユダヤ人がハーン・ユーニスを立ち去った後にやっと会えました」
さてここからどんな結論が出せようか?

p116
親戚や隣人が熱心に聞いている前で、痛ましい話をしてくれたハミスが、そこにいなかったなんて、僕が言える立場じゃない。
もしかしたら夫を殺されて取り乱したオンム・ナフェツがハミスを記憶から消してしまったのかもしれないし、
ひょっとしたらアブ・アンターは当時幼すぎたから、ハミスがいたのを思い出せないだけなのかもしれない。
それとも、ハミスは兄弟の死を何度も聞かされて自分もそこにいたように思ったのかもしれない。
サブヒと一緒にいるべきだったとハミスが思ってるのかもしれない。
ハミスは生き残った。
兄弟のうち三人は死んで未亡人と5人の子供が残った。
それだけじゃない。
すぐ近くでは、九つの家族、隣人、友人など36人が殺された。
落ち着いた雰囲気の中でハミスは死んだ全員の名前を言った。
ハミス「オマル・アルバラ」
ハ「……メド・アブ・アメール」
ハ「ハミド・アブデル・ハフェツ・アルランティシ」
ハ「アブデル・アジズ・ノファル」
ハ「アーメド・アルザク……」
大勢が死んだ中で生き残った人が持つ罪悪感と悲しみを溶かす事も、
そしてまたトラウマを負った人間がもしそこにいなかったのなら(そう言われてるが)、どうして兄の死を思い出せたのかも、僕には説明できない。
僕は目撃証言に頼った話に問題は付き物だと認めたいだけ。
しかしこの殺された人達は、あの日ハーン・ユーニスと難民キャンプで殺された275名のパレスチナ人の一部なのだ。その数字は国連報告が認めている。

p117タイトル「公式文書」
この報告書はニューヨーク市西43番通りにある国連公文書館に行けば誰でも読める。
国連総会提出の国連パレスチナ難民救済事業機関長特別報告書(期間1956年11月1日~1956年12月中旬)。
公文書保護係がカートに載せて押してくる忘れ去られた沢山の文書を見ると、舌なめずりして喜ぶような歴史学者にとって、こういった現代の記録文書は何十年も前の記憶に頼るより、しっかりと事件の内容を伝えてくれる。
しかしこの報告書には"死傷者が出た原因に関しての説明には矛盾がある”と書かれている。
"イスラエル当局は、占領に対して抵抗運動を受けており、パレスチナ人難民が抵抗軍の一員となっていたと言う。
"一方難民側によると、事件当時抵抗活動は無く、武器所有者を見つけ出そうとするイスラエル軍が町とキャンプに侵入した際に多くの非武装一般人が殺されたと言う。

p118
国連報告書はハーン・ユーニス"事件”に関し二つの相反する説明を提示している。この場合は、他の多くの場合と同様に、"一方では”とか"ことによると”とかで弱められ、もしかしたら"十中八九”も少し付け足されるような文書によって、我々は曖昧な歴史の中に埋没してしまう。
しかし国連文書にある難民側の主張は何十年も経ってから僕とアブドが集めた目撃証言と明らかにぴったりと一致する。つまり、抵抗運動は止んでおり、人々は武装しておらず、抵抗もしなかったのだ。
1982年に元イスラエル兵士でジャーナリストのマレク・ゲフェンは1956年ハーン・ユーニスにいた事を明らかにし、自分の体験を記した。
ゲフェンによると、侵入した時に通りは"誰一人おらず”
"数本の小道では地面に死体が転がり、血だらけで、頭部は砕かれていた。死体を移動させている者もいなかった。
"怖くなり、道の角で止まって吐いた。人間屠殺場の状況に耐えられなかったのだ。

p119
"ガザの掃討作戦は続いた”とゲフェンは書いている。そして仲間の兵士がUNRWAの病院にいた非武装アラブ人医師を射殺した状況を描写している。
ゲフェン「なぜ?」
兵士「一人減った」
ゲフェンは既に亡くなっていたが、軍隊仲間だった男をテルアビブで捜し出した。ナフタリ・カルニはゲフェンと同じ部隊にいた。
彼はイスラエル兵が幾つか些細な暴行をパレスチナ人にしたのは憶えているが、ゲフェンがハーン・ユーニスで目撃したような死体群は見ていないと言う。
実際のところカルニはゲフェンの話を疑っている。ゲフェンは扇情的になる傾向があったそうだ。ナフタリは説明のつもりで言った"彼は新聞記者だったから”と。
もちろん僕も心の中では新聞記者のつもりだ。そして僕にとってその言葉は軽蔑の対象じゃない。新聞記者は事実を、決定的なものを欲しがる。たくさんの"一方で”とか"ひょっとしたら”とか"十中八九”とかでも無く。
僕は誓うよ、次に来る一群の目撃証言には事実以外の何物もこじつけたりしないって。証言がたとえ弱くて不十分な物であっても。
もう一つ付け加えるべき脚注があるんだ。

p120白紙

p121第二章「祝祭日」

p122白紙

p123タイトル「その話はお終い」
午後遅く携帯が鳴り始めたら、重要な事は後にして、その日のつまらない話を新聞社に送信だ。
"エメク・レファインのあのレストラン?”
"もちろん!”
"まずこの話にケリつけなくちゃ”
"あっちで会おう”
ヨーロッパに数ヶ月いたが今はエルサレム、東の方に戻って来た。
やったー!また一緒になれた!
今回は凄く開放的な気分、たくさん飲んじゃうぜ!
だって今回は問題なくエレツからガザへ入れるから<三上注p7参照>
報道パスをゲットしたんだ!
さぁ仲間達に追いつくぞ。
今回は何処にいた?
カルキリャ検問所?
ジェニン・キャンプ?
確かに酷い話だ……
でも新しい話は無いの?

p124
タバコに火をつけ
酒を飲む。
バーバラは言う"いい話は無いわね”なぜまだ自分はここにいるのかと思いながら。
その話はお終い!
ああぁ……でも他の話があるさ!
叙事詩になるかもしれない飛び切りの話が!
過剰な報道時代に一度有るか無いかの、いつもの聞き飽きた事件よりもっと広がる可能性の高い話が!
僕の尊敬する同僚はそう信じてるんだけど。
ジ「イラク?」
ジ「ありえないよ」
ジ「あいつら、そんなにバカじゃない」
でもバーバラはクウェートからイラクに入るつもりだそうだ。ハーヴェイはイランを経由して入ろうと計画している。一方クリスティーンは化学兵器研修を終えた。誰かが行って来いと言うのを期待しているんだ。
そっちの話に栄光あれ!
でも僕は無難にやるよ。
50年前の話を求めてガザへ向う。
だって昔話はいつも良い物だから。
しっかりした物が古い話にはあるんだ。

p125タイトル「閉所恐怖症」
アブドと彼の友達ハニと合流した。
二人は親友だ。女性の権利の為の活動をしている時に知り合い、エジプトでは一緒に法律を学んだ。
アブドにニュースが。
彼は決めたんだ。
アブド「少なくともしばらくは、ここを離れる時が来た」
彼は海外の経営学修士プログラムとパレスチナ人学生奨学金に応募するつもりだ。
アブドが働いているオフィスで僕達は一晩かけて履歴書と"自己紹介文”を書き上げた。
海外で研究したい理由は?
あなたの将来にどのような利点が?
母国発展にどの位役立てられますか?
僕達は凄くクソ真面目な文章を書いたよ。

p126
深夜前ヘリコプターと銃撃音が聞こえた。
何が起きたのかテレビをつける。
ハマスが運営するリハビリセンターで男性看護士二名がイスラエル軍に殺された。
パレスチナ人カメラマンは看護士の胸に大きく開いた傷口をひるまずに映していた。
翌朝ハニと再会。
オフィスのバルコニーじゃらシファ病院が見える。昨晩看護士が運ばれた病院だ。
拡声器からイスラムの歌が響き渡っていた。
ハニが説明する。遺体は家に戻されてからモスクへ運ばれ祈祷を受けてから墓地に埋葬される予定だ。
殺された看護士は殉教者になるので、遺体を洗ったり、服を着替えさせたりしないそうだ。
ハニ「殉教者の血は香水であり、」
ハニ「殺された時に着ていた服は神に出会える最高の服なんだ」

p127
でも僕達は葬儀について回らなかった。
病院の近くではタクシーが列を成して並び、南の地域、僕らの向うハーン・ユーニスも含む、へ連れて行ってくれる。運転手は一日二往復できればラッキーだから、タクシーの並ぶ順番が非常に重要だ。
次に発車予定のタクシーには既に女性がフロントシートに座って待っていたが、ハニはパレスチナ人にしては背が高く、窮屈な後部座席に座るのを嫌がった。
しかし礼儀正しいハニは女性に席を代わってくれとは頼まなかった。
解決策としてハニは二番目のタクシーのフロントシートに乗り込み、僕らはその後部座席に座った。
これがもとで一番目のタクシー運転手と喧嘩が始まった。運転手は客とハニから嫌がらせを受けたと思ったようだ。
ガザで見られる怒鳴り合いは見掛けとは違うと聞いていたけど、
いや、実際、本当に見かけ通りだ。
つまり口論だ。

p128
ハニの勝ち。僕達のタクシーは間も無く満員になり動き出した。
アブ・ホーリ検問所まではスムーズなドライブだった。
検問所ではいつもの渋滞。
アブド「どんな車でも三人以上乗ってないとイスラエル軍は通してくれないんだ」
アブド「最近は拡声器で'三人以上、三人以上’って叫んでるよ」

p129
最低ライン三人確保の為に後一、二名を必要とする運転手を探して、子供達がうろうろしている。
1シュケル<三上注約25円>で検問所の向こうまで一緒に乗ってくれる。
第一タワーに近付くとみんな押し黙る。
運転手は緊張する。

p130
「行けー!」
入植者用の防爆弾陸橋バイパスの下を通って数百メートル先の第二タワーへ着く。
タクシーは危険を抱かせないようにスピードを落としてノロノロと進む。
全員また静かになる。

p131
アブドが申請書をやり取りするためにパソコンとファックスのあるガザ市のオフィスとハーン・ユーニスの間を往復する日々がこれから数日続く。
つまりアブ・ホーリ検問所を何度も何度も行き来するんだ。
"ガザ市にいる時はいつも、一日か一週間か、足止めされる覚悟をしている”とアブドは言う。
僕は下着の替えを持ってくるようにしたよ。
ガザにいた時アブ・ホーリ検問所で自爆攻撃があった聞いた。
パレスチナ人らしき人物が運転する車が、怪しまれないように三人載っていたが、突然検問所に突っ込み乗客が銃を乱射し、そして自爆した。
パレスチナ人は殺されイスラエル兵数名はショック症状を起こした。

p132
アブ・ホーリ検問所は一日か二日閉鎖するだろうと思ったが午後には再開し、翌朝ハーン・ユーニスに戻る頃にはまたいつもの渋滞だった。
「お茶はいらんかね」
「お茶はいらんかね」
「お茶、お茶は?」
タクシーの窓をコンコン叩く音がした。
後ろにいた車の運転手で一人だったから通り抜けるのに後二人必要だったんだ。
でも雨が降ってたからいつものシュケル・ボーイ達がどこにもいなかった。
男「誰か私と一緒に来てくれませんか」
アブドと僕が同意して乗り込んだ。
車の中は運ばなくてはならないビスケットで一杯だった。
車の列は動き始め、少し進む度にビスケット袋に埋まってしまいそうだった。

p133
やっと検問所にたどり着き、昨日の自爆攻撃の痕跡を探した。
アブド「この二つのクソ塔を攻撃して何人も殉教した」
こっちの塔を昨日の三人は狙ったそうだ。
爆発した車の残骸が少し残ってたが、その他に昨日の状況を伝える物はほとんど残ってなかった。
このイスラエル検問所は無傷だ。

p134タイトル「結局は打ち負かされる」
アブ・ホーリ検問所への自爆攻撃ではイスラエル側に大きな死傷者が出ず、パレスチナ人はがっかりしていた。
話の途中で質問してみた、
ジ「テルアビブで爆弾が破裂したと聞いたら、まずどうする?」
ハニ「まず喜ぶ」
ハニ「もちろんイスラム教は女性子供老人を殺す事は認めていない」
ジ「爆破なんていったい効果的戦略だろうか?」
ハニ「イスラエル人はみんな兵士だ」
ハニ「イスラエル人は16歳(*)で入隊し、軍務を終えても毎年40日兵役に就く」
(*)実際の徴兵年齢は18歳
ジ「質問に答えてない」
ジ「こういった行動の倫理性について話してるんじゃない」
ジ「僕が聞いてるのは、爆破攻撃がパレスチナ人の国益に成っているのかどうかだ」
ハニ「爆破はやつらに恐怖心を与える」
僕は不満だったしハニもイラついていた。
ハニ「これ以上話したくない」
ハニ「食べよう!」

p135
僕がハーン・ユーニスに戻って来たと"お尋ね者”のハレドが聞いて、昼食に来てくれた。
ハレドは椅子に深く座ったまま動かなかった。
ハレドはギアを低速に入れてるみたいだった。動物が心拍数を落として力を保存するようにね。
前に会ってから状況はどうなったか聞いてみた。
ハレド「前より悪くなってるよ」
ハレド「政治的展望が全く見えてこない」
出来るだけニュースをキャッチしていた。
CNNキャスターはアメリカ連合軍がイラクと戦争する可能性を明るく語っていた。
戦争!
その単語をキャスターはミントチョコのようにころころと軽々しく口にしていた。

p136
ブッシュはセットの前で威厳に溢れていた。
ブッシュがイラクを"刑務所”と例えた時、みんな笑った、
イラクは刑務所じゃないと思ったからか?それとも我々こそが今刑務所にいるんだと思っているからか?
ブッシュは世界に告げた"ゲームは終わりだ”。
その夜か翌晩は銃撃と爆発で眠れなかった。
イスラエル軍がハーン・ユーニスの8家屋を粉砕したのだ。心臓発作で女性一名が死亡したそうだ。
翌朝タクシーで一人の客がち独り言をちょっと言ったかと思うと
客「サルタには名誉を傷つけられ、アラブ諸国は役に立たん」
客「アメリカ人はこっちの頭とイラク人の頭を交互に叩きやがる!」
客「やつらイラクの次はシリアを攻撃するぞ。それで全員やられるってわけさ!!」

p137タイトル「祝祭日」
取材の手を数日休めよう。
イード・アルアドハ<三上注イスラムの犠牲祭期間>の時は誰も56年についてのインタビューなんかじっくり受けたくないからね。
ハーン・ユーニスでは先週ずっと、孤独で悲しげなヤギや羊がなだめられて、ゆっくりと通りに引き降ろされていた。
今日は犠牲祭の前日、そして牛が到着した。
子供達「牛が来たよ!」
子供達「牛が来たよ!」
牛は車から降ろされ、空いた倉庫へ連れて行かれ、
そこで最後の夜を孤独に過ごすか……
裏の空き地に連れて行かれ、大喜びの子供達と付き合うことになる。

p138
夜になってアブドと二人で650kgの牛を見に行った。アブドの家族と六人の叔父の家族やいとこ達が約1400ドル払って購入したのだ。
翌朝牛を買った家族の男達全員が集まり屠殺に参加しようとしていた。
しかし屠殺人は遅れており、マハムードとアブ・ハメドは屠殺人はどこにいってるのかあれこれ考えていた。
マハムード「もし来なかったら我々がやるしかないな」
アブ「牛を縛り倒さなくてはならんが、俺達は女性の相手は出来るが……」
アブ「いや、ほとんど女性の相手もできないもんな」
そうこうするうちに、近くで一頭の牛が道に引きずり出された。
一撃で殺すのが理想だが……
男は上手くナイフを扱えず、
何箇所も滅多刺しにされてから牛は倒れた……
それでも痙攣を抑えるため二人の男性が上に乗る羽目になった。

p139
通りは噂どおり、血で一杯になり子供達は壁に血の手形をつけて遊んでいた。
一方僕達はまだ屠殺人を待っていた。
アブ・ハメドは待ちくたびれて、僕がガザで何をしているのか聞いてきた。
アブドが僕の56年プロジェクトを説明する。
56年?
アブは当時6歳だったが憶えているそうだ。
"イスラエル軍がハーン・ユーニスに侵攻してくる前に”
アブ「市場にいたけど、空爆が始まって」
アブ「飛行機の合間を縫って、店から店へと走ったんだ」
50年経ったが状況は暗いままだ。
アブ「我々は牛を生け贄にし、シャロン(*)は我々を生け贄にする」
(*)アリエル・シャロン:当時イスラエル首相
やっと遅れに遅れた屠殺人が現れた。
アブ「フランスにでも行ってたんじゃないか?」

p140
屠殺人とその息子、二人は今朝まだ他に二つ予約を受けているので、牛を出す為急いで扉を開けた。
ドアを開けただけだが、牛には何かが起こると分かったようだ。
屠殺人はナイフを研ぎ息子は慣れた様子でまず前足を、続いて交差する後ろ足に縄を通した。
さぁみんなが一致団結する時だ。縄が交差するように引かれ……
牛は倒れる。

p141
牛が立ち上がれないのを確認し、屠殺人は前に近付いて
「神の名の下に……」
三度刺し、四度目にやっと皮膚を破った。
息子が後を引き継いだ。
息子は小さいナイフを使って、奥深くまで入れたので拳が牛の喉の中に埋没した。
息子が切り刻み、屠殺人が切り口を横に広げた。
牛は蹴るのをやめた。
男達も加わり首を切って頭をひねり外した。
軽量ブロックを持ってきて、皮を剥いだ屠殺体を支え……
脚は膝の関節で切り取られた。

p142
腹を割いて内臓を取り出す。
胃や腸は歩道に捨てられ
男の子が毒性の有る脾臓を慎重に受け取ってから、それを手榴弾のように道の向こうへ放り投げた。

p143
皮は貧しい脳性麻痺の男に与えた。彼が欲しがっていたのだ。業者に売れば50シュケル(10ドル)ぐらいもらえるかもしれない。
牛は四つ裂きにされ、屠殺人は帰る準備を始めた。
屠殺人「仕事は終わった」
だめだだめだ!
金は払ったんだ、もっと細かく分けろ!
機嫌を悪くしながら、屠殺人は時間をかけて肉を切り分けた。そして次の50ドルの約束を果たしに行った。
肉塊は数件の軒先に吊るされて洗われる。
男達は肉をスライスしてバケツに入れる。
さて近所のお店で一服休憩タイムだ。隣人がそれぞれ家庭から屠殺したばかりの肉を持参し、マハムードはその肉をケバブにして小銭を稼いでいる。客寄せの為にマハムードは石炭に脂身を入れる。網焼きのいい匂いが通りに広がっていた。

p144
アブドは壁のポスターをぼんやり見ていた。殉教者が二人載っていた。
アブド「友人が殺されたのに知らなかったんだ」
ジ「誰?」
アブド「左側の男」
アブド「アンマー」
アブド「たった一時間前に知ったよ」
ジ「何で知らなかったの?」
アブド「ガザでずっと働いててほとんどの時間あっちにいるから」
友人は最近あったイスラエル軍侵攻に抵抗していた。
アブド「負傷して、そして死んだ」
アブド「アンマー」
クレオパトラタバコ<三上注エジプト製のタバコ>を吸い終わり解体最終ステージに参加した。
肉は切り分けられて部位毎に積まれ、そこからさらに細かく分割される。
部位別に分けた肉を7等分しそれぞれの家族に渡す。
家長が集まり袋が一山ずつ配られる。

p145
牛の屠殺から肉の分配まで全プロセスに四時間かかった。
しかしまだ終わらない。今度はそれぞれの家庭でもらってきた肉を三等分する。
家族に三分の一、近親と友人に三分の一、貧しい人に三分の一だ。
アブドの義父は丁寧に計って分配する。
アブドの母親は肉でいっぱいのビニール袋を息子に渡し、ある老女の名を告げる。
母「手渡しするんですよ、必ず」
一時間後、アブドと僕は屠殺した牛肉を使って最初の食事をしていた。
翌日、虐殺について牛にインタビューすべきだとアブドはジョークを言った。
アブド「聞いて回れば、牛達はこう言うよ'やつらが俺達をここに閉じ込めるんだ’」
アブド「で、君は牛語がしゃべれないから、通訳としてもう一匹牛に同行してもらうんだ」
みんなの願いどおり激しい雨が降ってきた。
見えないけれどイスラエル軍爆撃機の音が頭上低くゴーゴー鳴り、雨が道の牛血を洗い流していた。

p146タイトル「ハニ」
翌日ぐらいだったかな、ハニがラファフから会いに来てくれた。ハニはラファフの難民キャンプに住んでいる。
彼の所でも屠殺人は遅れてきて最後にはハニが自分でやることになったそうだ。
ハニ「でもできなかったよ」
ハニ「牛は震えてて抵抗しなかったけど」
ハニ「やりぬくガッツが無かったんだ。牛は倒れてて'神の名において、神は偉大なり’とも言ったんだけどね」
ハニ「みんな笑って家族にからかわれたよ」
ついに、屠殺人がやってきてその仕事をした。
しかしハニは牛の皮を剥いだり肉を切ったりするのには加わらなかった。
その牛の肉を食べる気にもなれなかった。
ハニは僕が次に行う調査の後方支援を自任していた。調査はラファフでする予定なのだ。
ラファフのキャンプを事前調査した時、いつものように子供達がくっついてきた―
子供「ハウアーユー?」
子供「ハウアーユー?」
―ハニがついて来ないようにとお願いするまで。

p147
しかし彼の部屋に座っていると、子供達が這い上がって壁から中を覗いてきて、ハニは切れた。
ハニ「邪魔するんじゃない!お父さんに言って首の骨へし折ってもらうぞ!」
戻ってくるとハニはもう冷静だった。
ハニ「君達がここにいるからじゃないよ」
ハニ「あいつらが窓までよじ登ってきたからさ。ここは僕のプライベートな場所だから」
第一次インティファーダの頃ハニは十代半ば、スローガンを壁にスプレーペイントしてる時に、イスラエルのスパイが飛び掛り、彼を至近距離から七発撃った。
ハニは傷を見せてくれた。
ハニ「やつらはオレをヘリでイスラエルの病院に運んだ」
ハニ「オレを助ける為じゃなく、情報を引き出す為だ」
怪我が回復するとハニは刑務所に入れられた。
ハニ「狭い部屋に何日も閉じ込められた」
ハニ「小便をかけられて、」
ハニ「尋問官は俺の顔を壁に叩きつけた」

p148
話は続いて……
最後にハニは僕に言った。俺は何も自白しなかったよ。
ハニはそれを誇りに思っている。彼はベドウィンでそれも誇りに思っている。うれしそうにベドウィンの伝統を説明してくれる。
アラブ人である事が彼の誇りだ。
ハニの友人でアラブ語の先生をしているアブ・モハメドの所に連れて行ってくれたことがある。
アブは僕の56年プロジェクトに興味を持ったけど、アラブ人は自分達の歴史を知らないんだと強く言った。
アブ「アラブ人は文字が読めない」
ハニは異議を唱えたが、アブ・モハメドは譲らなかった。
アブ「たった一国―スペインとしよう―が文化的に作った物の方がアラブ世界全体が作った物より多いんだ」
アブ「独裁と失業のせいでアラブ人は心よりもお腹の方を考えるようになったんだ」
みんな怒った、特にハニが。
ハニ「植民地化と占領は許されない!我々の経済はどこから来てる?」
自分で答えた。
ハニ「やつらからだ!」
植民者と占領者!

p149
アブ「確かに、経済は我々にのしかかっている。しかしアラブ軍隊プロジェクトは?」
アブ「アラブ経済プロジェクトは?」
アブ「アラブ文化プロジェクトは?」
アブ・モハメドは言う。実際問題、全部、外圧のせいなのか?と。
アブ「インドは植民地だったろ?でも今は核の力を持っている!」
アブ「アラブ人は何も出来ていない」
過去の栄光についても―例えば8世紀にムーア人がスペインを征服した話でも―意見が一致しない。
ハニ「イスラム人が侵攻した時は占領みたいな形じゃなかった」
ハニ「啓蒙活動だったんだ」
アブ「イスラム人の振興は占領だった。剣を持ってたんだから」
アブ・モハメドはアラブ人の物の見方(と彼が思ってる物)を上から下まで徹底的に批判する。
アブ「僕の友人にノルウェー人の女性がいる」
アブ「彼女が言うには、例えばスイス中をタクシーで回っても何も問題は起こらない」
アブ「しかしここでタクシーに乗ると、すぐみんなに裸にされてるような気分になるそうだ」

p150
ハニ「ジョー!」
ハニ「君がここを訪れた時敬意を受けてる気がしたろ?」
もちろんだよと僕は答えた。
ハニ「で、もしアラブ人がヨーロッパに行ったら同じような敬意を受けられるかな?」
会話はみんなが思ってる最大のトピックに移った、
アメリカ軍がイラクを攻撃する可能性について、
そして、イスラエルがこの戦争を利用してパレスチナ人を占領地から"移動”させるという噂について話した。
ハニはアブ・モハメドをじろりと見た。
ハニ「周辺国が"移動”を喜んでくれるといいけどな」

p151第三章ラファフ

p152白紙

p153タイトル「家探し」
さぁラファフでの拠点を探そうと、ハニがうるさい。
僕に難民キャンプで生活して欲しくないんだ。
町のいい場所に連れて行ってくれ、そこからはアパートが数棟見渡せた。
ジ「キャンプで生活する方がいいなぁ」
"お尋ね者”のハレドも僕を説得する。
ハレド「疑いをかけられるかもしれないから」
ハ「キャンプは抵抗勢力のいるエリアだから」
ハ「ハニが薦める所に滞在した方がいい」
ハ「ドアマンがいるような所を探したらどうか?」
ドアマン?
アブドと僕は物事の渦中にいるのがジャーナリストの義務なんだと説明し、ハレドも最後には態度を軟化した。
ハレドは二三箇所電話して町の中心部に有る住居を見つけてくれた。
翌日そのアパートを見に行く途中でハニの所に寄った。
ハニは僕が勝手にキャンプに住居を定めた事に怒った。
ハニ「彼の安全は?」
ハニ「ラファフにいるんだぞ!」
ハニ「俺には責任があるんだ!」

p154
ハニ「秘密はどうなる?」
アブド「秘密は彼に言わないよ」
ハニ「キャンプは秘密だらけだろ!」
ハレド「以前イスラエル人権団体で働いてるパレスチナ人の男がいた」
ハレド「でも内報者だと分かってね」
男がイスラエルに情報を流しいて―
ハレド「―ここラファフでのミサイル暗殺に繋がった」
抵抗軍が男を見つけ出して"査問”し処刑した、とハレドが言った。
ハレド「信頼してた人間でさえ時には裏切り者になるってことさ」
ハレドは立ち上がって礼拝の準備をしたが、そこでもう一つ、
ハレド「今のインティファーダが起こる前、あるユダヤ人女性がよく来て労働者を車でイスラエルに連れて行ってくれたんだが」
ハレド「その女性も結局抵抗軍に殺されたよ」
ジ「なぜ?」
ハレドは憶えていないそうだ。
ハニは?
ハニ「よく憶えていないな……」
ハニ「でも理由はあったはずだ」
"まじで!”"僕はあとどのくらい生きられるんだ”と言ったよ。
皆は面白いジョークだと思ったみたいだけど。

p155タイトル「海岸通り」
その後すぐ、ハレドが選んでくれたアパートをチェックしに行った。
大邸宅だ。
寝室六部屋、トイレが三箇所、バルコニーが四つだ。
ハニでさえ気に入ったよ。
ハニ「ここならサッカチームの練習が出来るな」
ジ「そうだね」
アブドと僕は一日か二日後にこの新しい下宿に移って来た。
一部屋占領だ。
邸宅の他の部屋は空いたままだ
僕達は幸運だった。
ラファフでは大規模な家屋破壊があって
何百もの家族がイスラエル軍ブルドーザーによってホームレスにされたり、銃撃でボロボロになった隣家に避難していた。
(今に分かるよ)

p156
比較的安全な地域に滞在していたけれど、いつも戦闘の音が聞こえていた、特に暗くなってからは。
車輪がキーキーいう不気味な音はイスラエル軍の車両が移動している音だ。
銃撃音が夜を切り裂き、
壁が爆撃で揺れて鶏が鳴き出す。
耳栓をしていても衝撃で起きることがあった。
大災害みたいな状況でもアブドは寝ていられるんだ。
アブド「グ~」
二度寝出来ても短い時間だけ。ラファフの朝は早いから。
礼拝を告げる声が高らかに響き、車のクラクションが鳴り、かん高い子供達の声が聞こえだす。
そしておまけにロバがパカパカ歩く音だ。
もうはっきり目が覚めた。
アブド「グ~」

p157
屋根に上がって車、人、動物達を見下ろす。ラファフのフルオーケストラだ。
僕達はイブナ地区の近くにいる。最初の難民がパレスチナのイブナ村<三上注現在はイスラエル領のイブナ>から来たのでそう名付けられた。
道の向こう側はシャブーラ地区で、曲がりくねった路地が奥に続いている。
他の周りはUNRWA区分による名称がよく使われている。JブロックとかOブロックとか。

p158
海岸通りの側に住んでいる。
海岸通りは僕の1956年ストーリーの中心であり、町とキャンプを隔てる大通りでもある。
町の西側で誰かが撃たれると、救急車は海岸通りを走って東側郊外にあるナジャー病院へ急行する。
ある朝、ひどい銃撃戦があって、救急車が何台も音を立てて負傷者を運んで行った後、ラウドスピーカーを積んだ車が大音量を流してゆっくり走り、十二三歳の少年が死んだと告げて行った。
僕とアブドが見ていると、まもなく人々が集まり葬列となって海岸通りを行進して行った。

p159
死んだ少年の顔を見下ろした。少年は敵の銃弾に倒れた殉教者なのだ。
誰かが空に向けて一発撃った。
四分後葬列は見えなくなってしまった。
"ハラス”と言うそうだが。
お終いって事。
海岸通りに買い物客や車や馬車が徐々に増えてくる。
日々の喧騒が戻って来た。

p160タイトル「ラファフの不幸」
これは2003年初頭、まだイスラエルがガザを占領していた頃のラファフの絵だ。
ラファフ住民のうち九万人は難民で、何世代も前から住んでいるラファフ"原住者”は三万人。
ラファフはエジプト国境と……
ユダヤ人入植地に囲まれている。この入植地によってラファフは海岸地から切り離されまたハーン・ユーニスの最短ルートも邪魔されている。
イスラエル警備地域
イスラエル軍基地地域
パレスチナ人市街地
イスラエル警備支配地域/パレスチナ人管区
ラファフ・ターミナル
特に国境地域はラファフにとって不幸の種だ。イスラエルとPLOが合意調印した条項に基づきイスラエルはエジプト・ガザ国境に"軍事基地地域”の設置を容認されている。

p161
市街地(大きな地域は大文字で示してある)
黒太線で囲った所が難民キャンプ地域。UNRWAが制定した地区は四角文字で示されている。
イスラエル軍基地地域
イスラエル警備支配地域/パレスチナ人管区
重武装したイスラエル軍の建物がこの地域には沢山有り、ラファフの大部分を支配している。
例えばラファフ西側を見渡すタル・ゾロブ塔や、荒れ果てたサラディーン門に立ちはだかるターミット軍地とか。
タル・ゾロブ塔
ターミット軍地
この区域はフィラデルフィ・ルートという細長い地域で国境フェンスに沿って続いている。

p162
第二次インティファーダ以後IDFは高さ8メートルの金属防壁を埃立つ道に沿って建てた。軍用車をパレスチナ人の攻撃から守る為である。
エジプト/ガザ国境
フィラデルフィ・ルート
防壁
IDF基地
ラファフ
エジプトとの入出国地であるラファフ・ターミナルはイスラエルが支配しているが、国境は完全に封鎖されている訳ではない。パレスチナ人はトンネルを掘ってフィラデルフィ・ルートの下を通ってエジプトに抜ける。
エジプトのタバコや不足物資を密輸している家族にとって、トンネルは大きなビジネスだ。
しかし徐々にパレスチナ人は武器弾薬を密輸して抵抗運動を後押しするようになった。
IDFはいつものようにラファフを破壊してトンネル"橋脚”を発見しようとする。
トンネルを隠していた家かイスラエル軍の侵攻に抵抗した事のある家は必ず破壊される。
この二つの理由だけでイスラエル軍はラファフの何百という家屋を粉砕している。
家屋の取り壊しは日常茶飯事となっている。

p163
キャンプを初めて回った時、銃撃と砲撃の音がして、あぁ、また始まったかと思った。
装甲トラクターがOブロックの家屋を破壊していた。
武器を持った二人のパレスチナ人も出て来て戦闘に加わった。
その時近くにいた女性が僕達をい家に手招いた。
この女性は服を重ね着して逃げる準備をしていた。
女性「向こう側にもう一軒家が有りますが」
女性「この家並びには私達以外誰もいません」

p164
女性「夫は第一次インティファーダでゴム弾を受けて失明しました」
女性「夫は既に義父の所に預けています。この家が破壊される時に逃げ切れませんから」
ジ「もしこの家が壊されたら、どうしますか?」
女性「どこにも行く当ては有りません。テント生活しかないです」
女性「この娘はすごく怖がっていて、破壊が始まると床を這い回るのです」
女性「今までも引っ越しては戻り、引っ越しては戻りしてきました」
女性「お金があればとっくの昔に何処かへ引っ越しているのですが」
女性「あなたが私の立場だったらどうしますか」
女性「どうしますか」
僕達の後ろで又銃撃が激しくなっていた。

p165
数十メートル先の角を曲がった所に女性が二人いて子供達がたむろしていた。
女性の一人が僕の外国人顔を見て怒りを爆発させた。
女性「何で奴らは一片に肩をつけないんだい?」
女性「少しずつやって何になる?」
女性「子供達は怖がってるんだよ」
女性「誰かさんの家で、誰かさんの記憶で、誰かさんの生活だから、奴らは壊してるんだ」
女性「私の息子は榴散弾の破片を頭と首に受けた。今あそこにいるよ」
ブルードーザーに石を投げてるという意味だ。
ジ「止めないの?」

p166
女性「そんな事は誰にも出来ないね!少年達にはインティファーダの血が流れてんだ!」
女性「もう一人の息子は一晩中震えてひきつけを起こした」
女性「一気にこおの区域を片付ける事も、戦いを止める事も出来ないよ」
彼女はもう一人の女性に目配せした。こっちの女性は今のインティファーダで自分の子供五人全員が負傷したと言う。
その一人は腕を失った。
女性「殺された少年は殉教者だって言うけど、不具者になった息子を見たら、、何て言う?」
女性「息子が腕をもぎ取られ、片手でズボンを上げようとするのを見たら、自分が少しずつ死んでいくんだよ」
女性「でも、誰かが自爆攻撃したら、世界中が大騒ぎする!」

p167
女性「私らは子供に、ここは私らの土地で奴らは敵だって教えるよ!」
女性「子供を生み続けて、生み続けるよ!」
女性「子供の飼育場をつくるから!」
女性「息子達を17歳で結婚させるんだ!」
女性「おまえ!」
女性「あんたは何時結婚するんだい?」
そして皆笑った。Oブロックを立ち去るのにちょうど良かった、皆が明るい笑顔を浮かべてる時にね。
数週間後、僕は最初に会った女性がどうなったか調べに戻って来た。
あの女性はもういなかった。
彼女の家とその並びの家は全て無くなっていた。

p168
タイトル「ラファフの崩壊」
ラファフの家屋を破壊する音は現在のホワイトノイズとなって流れ、その上を流れる別の時代、1956年の音を僕達は聞いている。
遠方からの征服者の声は、遠くとも、未だに大きくはっきりと聞こえる。
銃撃が散発し、装甲車がフィラデルフィ荒地を爆走している夜に、アブドは僕が持っていたモシェ・ダヤンの戦時回想録「シナイ作戦日記」英語版を夢中で読んでいた。
戦争の進行過程、軍備目録、攻撃を示す矢印があちこちに記された戦地地図などがいっぱい載っている本だ。
シナイ作戦日記
モシェ・ダヤン参謀総長
一つの地図には六本もの侵攻矢印が書かれており、イスラエル軍がどのようにラファを占領したかが分かる。
"もしエル・アリシュとラファフが我々の手に落ちれば、ガザ地区は孤立し、長くは持ち堪えられないだろう”とダヤンは書いている。
実際、ダヤンはラファフ攻撃を非常に重要視したため自ら第一歩兵旅団の攻撃に同行したのだ。この攻撃は1956年11月1日早朝に始まった。

p169
僕とアブドはモハメド・イスマエル・アルスバヒを見つけ出した。彼はイスラエルの攻撃を受けたパレスチナ人兵士の一人だ。
モハメド「わしは指令本部の後方にいた」
モハメド「わしは読み書きが出来たから指令本部に居れたんだ」
モハメド「本部は西側の村へ通ずる道の側にあった」
ラファフ防衛軍は数時間で壊滅。
"これはまずいと思ってサボテン畑に入り込んで、道路が遮断される前に逃亡したんだ”
"エジプト兵士高官は制服を脱いでいたよ”
午前中のうちにダヤン軍は次の目標に向っていた。
ダヤンは後に書いている"ラファフを去る時、興奮と緊張は無くなり、すぐに平静さを取り戻した。落下傘部隊時代に自分が飛んだ時のような平静さを。”
しかし灰燼の中に取り残された人々にとっては平静でなんかいられなかった。

p170
海岸通りでカーペット店を営むモハメド・ユセフ・シェイカー・ムーサ<三上注p22参照>は店の裏にある小さな倉庫で思い出を語る。彼はイスラエル軍の攻撃を受けて、ラファフから海岸へと逃げてきた何千人ものうちの一人だった。そこからシナイ半島に逃げていったのもいる。
モハメド「両親は立ち去るのを嫌がって家に残りました」
"(イスラエル軍は)人々を海岸まで追い詰めました。
"やつらは敵兵を捜していたのです、軍服を着てるような……
"シナイ半島の砂漠で六、七人の死体を見ました。奴らが殺したんです。
"奴らは臆病な兵士ですが、アラブ兵はもっと臆病でした”

p171
"イスラエル軍は拡声器で人々に呼びかけてました。
「外に居ると危険だぞ!」
"人々を家に戻せば、召集しやすくなるからです”
モハメド「私は家に戻りました。(逃げれる)希望はありませんでしたから」
モハメド「父と母の事も心配でしたし」
不安定な占領が始まり、イスラエル軍はラファフ唯一の小学校を接収しました。この小学校は当時"正規”学校とか"政府”学校と呼ばれ、地元の子供だけを対象とし、UNRWAが運営する難民用学校とは区別されていた。この小学校は1930年代に建設され、当時の建物はまだ残っていて、今は中等・初等男子学校になっている。
今日では一般にエル・アメーリア学校と呼ばれている。
僕たちの付ける最後の脚注の舞台がこの学校だ。
しかしその話に行く前に、僕達はシャブーラ地区の公園で寒さに震えながら、ある男の話しを座って聞いていたんだ。男は名前を教えてくれなかったし、どこに住んでいるのかも知られたくないのが明らかだった。
男は当時のラファフの状況のようなものを語ってくれた。
男「ある人々から、逃げてきた人々から、ハーン・ユーニスでの虐殺を聞いたんだ」
男「ユダヤ人が待ちに入ってきて、若者に家から出て来いと命令し、壁に並べて射殺したって言ってた」
男「みんな、恐れ怖がって、怯えていたよ」

p172
"私の家の壁はとても低かったから、覗き込む兵士もいました。
"もしあなたが裏庭に出て、奴らがいたら、怖くって、部屋に戻ったと思いますよ。
"私達はランプを消して横になっていました……夜でもランプをつける者はいませんでした。
"日中二時間だけ、八時から十時、外出を許可されました。人々は急いで食料を取りに行きました。
"五分か十分過ぎると……至る所で射撃を始めました……空に向けて威嚇射撃です……”
時間までに家に戻らなかった者はしばしば射殺されたそうだ。彼が言う、
男「ある男が私の家の前で殺されました」
"背中を撃たれて、叫び、大声を上げましたが、誰も助けられませんでした。私はこの目で見たんです。
"当時救急車も有りません。負傷者は死ぬまで血を流し続けるのです”

p173
男「何も、どんな形の抵抗もありませんでした」
ラファフは制圧されていたが、イスラエル軍にはまだする事があった。
パレスチナ兵士と一般人に紛れ込んでるにっくきフェダイーンを捜し出したかったのだ。
メート・オウダ・アイェシュは56年当時六歳、現在は学校の先生をし、ラファフ非公式編年史家だ。
メート「私は昼夜問わずあれやこれや書いています」
僕は何回も言われた、
「オウダにインタビューされて、全ては彼の本に書いて有ります」
なぜならアイェシュは僕より早かったからだ。僕がこのプロジェクトをやると宣言するより遥か前にアイェシュはここに住んで自分で掘り下げていたんだから。
しかも彼の動機は僕の素人ガザ調査より上だ。
アイェシュはイスラエルのパレスチナ人兵士掃討作戦で親戚を六人亡くしている。
ラファフはフェダイーンの本拠地だとアイェシュは言うが、彼のアラビア語の記述によると、イスラエルの捜索で引っかかったフェダイーンはたった一人、レッドと言われていたアーメド・ジューダだけだ。
アイェシュによると、イスラエル軍はレッドを自宅から連れ出し二台のジープにくくり付けて体を引き裂いたということだ。

p174
僕とアブドはレッドの甥をどうにか見つけ出した。名前はザキ・モハメド・アブドゥラ・ジューダ。
イスラエルがラファフを占領してから、どうやって叔父がキャンプにこっそり戻ってきたかザキは憶えている。
ザキ「おじは家族と兄弟の面倒を見るため戻ってきました。皆は隠れるように言ったんですが」
ザキ「……おじはよく言ってました。'ラファで殺されるのは俺が最初だろう’って」
"イシャーの祈り、(一日の)終わりの礼拝をする頃に、ユダヤ軍が来て……叔父はベッドにいて横になり、パジャマを着ていたのですが……
"私達は隠れていました。恐ろしくてパニックになりました。ハーン・ユーニスで起きてる事を聞いていましたから。
"五分後、射撃音がしました。
"叔父だと分かりました”
ザキ「今でも本当のところは分かりません」
ザキ「何が起きたのか誰も観てないですから」
ザキ「遺体は見つかりませんでした」
もちろん、叔父が引き裂かれたという噂を知っているが、たぶん逃げようとして撃たれたんだろうとザキは考えている。
ザキ「叔父は私にとってだけでなくパレスチナ人のヒーローです」
ザキ「おじはイスラエル領内作戦で名を上げました」
しかし、ハーン・ユーニスのあの老フェダイーンを憶えているかい?フェダイーンはイスラエル軍のガザ地区大虐殺から全員逃げ切ったと言ってたよね。レッドはどうなんだろうか?
老フェダイーンはくすっと笑った。
老「アーメド・ジューダ?」
老「彼はフェダイーンじゃない、友達だったが」
老「間違って殺されたんだ」
老「目立ちたがり屋だったから、それで命を落としたのさ」

p175タイトル「長すぎる」
ではレッドことアーメド・ジョーダとは誰なのか?
抵抗軍のヒーロー?
テロリスト?
身の丈を知らずにフェダイーンごっこした男なのか?
理由が何であれ、イスラエル軍は捕まえたかったのだ。
数十年後、ハレドも狙われている。しかし闘士の資格は間違いなくある。
それに加え"清潔”―買収されないという意味―であると思われており、地元で揉め事があれば、彼の発言力はとても大きい。
ある日ハレドは、ラファフを案内しながら、イスラエル軍と戦った場所を教えてくれた。
ハレドは弾丸の雨を逃げ切ったが、抵抗闘士だった友人は殺されてしまった。

p176
ハレドはシャブーラ区の入り組んだ道を通って老女達のいる所へ連れて行ってくれた。第一次インティファーダ時代、イスラエル軍がパレスチナ人闘士を一掃しようとした際に、ハレドを匿ってくれた人達だ。
彼女達はハレドに再会できて喜び、危機一髪で逃れた時のことを思い出して語り合った。
そのうちの一人は特にハレドの健康状態を案じ、またイスラエル軍がヘリ攻撃でハレドを殺してしまうのではないかと心配していた。
女性「他の"お尋ね者”とあまり一緒にいちゃだめよ」
女性「「一緒にいないで離れなさい」
女性「同じ車に乗ってはだめよ」
ハレド「多くの友人にさよならを言ったよ」
女性「海外にいなくちゃ」
女性「なぜ戻って来たの?」
なぜ戻って来たかって?
なぜならここがハレドの家で……
そして又、PLOとイスラエルの和平合意で戦争が終わるのを願っているからさ。

p177
そうはなってないが、ハレドは二国共存案を信じ、今でもオスロ合意の枠組みを支持している。
ハレド「ユダヤ人は嫌いだが一緒に生活は出来る」
問題はユダヤ人がハレドと暮らせるかだ。
ハレド「ユダヤ人は誰の記録も決して明らかにしない」
アブドは以前言った"僕の考えでは、ハレドは疲れたんだと思う”
戦いに疲れ、逃亡に疲れ、ちっぽけになってしまった人生にも疲れてしまった。
ある日インタビューから戻ると、赤い目をしたハレドが部屋にいた。
ハレドは話したがっていた。
サルタが給料をくれる以外には、ここでは何の見込みも無いと言う。
ハレド「俺が家と小さな車を買うには20年かかるんだ。他に一銭も使わなかったとしても」
ハレド「妻はエジプト人の証明書を取れるかもしれない。彼女の両親はエジプト人のパスポートを持っているからね」
ハレド「妻は子供と一緒にここを出て、俺も後に続くかも」
ハレド「でも俺はもう一度エジプトに不法入国しなくちゃならんだろう。そうすればたぶんエジプト刑務所でまた一年だ。まぁでもよしとしよう」
ハレド「カイロの郊外なら3000ドルで家が買える」

p178
ハレド「子供が教育を受けて、個性を確立するまで、そこで暮らせるかもしれない。そうしたらいつでもここに戻ってくればいい」
ハレド「或いはシリアかスイスかスウェーデンでもいいな」
ハレドもしスウェーデンに行ければ、不法入国だから刑務所に入れられるだろうけど、その後は政治亡命が認められるはずだ。そうやった者もいるよ」
ハレド「でもここにいて?どうすれば?」
ハレド「合法的旅行も出来ない。エジプトにもヨルダンにもヨルダン川西岸にも行けない。もし手術を受ける必要があって国外に出なきゃならん時はどうすればいい?」
ハレド「ある日娘に聞かれたよ'明日は帰ってくるの?’って。心が痛んだ。いつ家に帰れるか言えないんだから」
ハレド「娘に俺がお尋ね者だって言うか?子供には理解できないだろう」
ハレド「俺は殺されるか暗殺されるのを覚悟してるが、それにしても長くかかりすぎだ」

p179タイトル「Jブロック西側の攻撃」
世間は狭いと言われるが、確かにそうだ。
一週間前ここラファフでカメラマンのアシムに偶然出会った。最初に会ったのはサラエボにいた時。
そして今、騒がしい海岸通りでアシムが携帯を切ったところに出くわした。
Jブロック近くでブルドーザーが活動してるとアシムに情報が入ったんだ。
本当は56年プロジェクトをすべきなんだが、アブドと僕はアシムにくっついて国境付近へ向った。
海岸通りの喧騒が遠ざかると、とても静かな場所に出た。
パレスチナ人ジャーナリスト数名と、いつものがやがやうるさい子供達もついてきた。僕は追い払わないよ、まぁ追い払えもしないけど。
たぶん子供達に騒いでいて欲しいのかも。

p180
以前に破壊された家屋の瓦礫を踏み越えていくと……

p181
そこには潰されて土に飲み込まれ、平たい地面になっていた。

p182
ブルドーザーの音が聞こえ動いてるのが見えて……
そのブルドーザーの後ろには護衛のAFV(*)がいた。
(*)AFV:装甲戦闘車両
全速力で住人の所へ走った。

p183
呆然としている男がいた。男の名はムニール・アブデルサラム・ハッスナ、横に母親が居た。
家の後ろ側が今壊されたばかりだ。
ジ「ここに住んでいるのですか?」
ムニール「そう母と妻と子供とね」
ムニール「ブルドーザーが壁を壊して……ここを撃ったんだ。見えるだろ」
ム「中にいたんだけど、今出てきたんだ」
ジ「イスラエル軍は警告しましたか?」
僕がふざけてると思ったみたいだ。
ム「まさか」
ム「突然銃弾を家の中に撃ち込んできたんだ」
ジ「これからどうしますか?」
ム「さぁ」
ム「神の助けあらんことを」
ム「とりあえず外に居るよ」

p184
ムニールは家のダメージを見せたがった。
扉に開いた銃弾の穴から中を覗き―
ム「戦車が中にいる」
僕達は彼の幸運を祈り、急いで他の人々に追いつこうとした。
建物の角を幾つか曲がり、ブルドーザーの見える場所にたどり着いた。ブルドーザーは大きな家の後方で地面を引っかき回していた。もう一台のイスラエル軍車両は地面にシャフトをねじこんでいた。

p185
絶えず大きな爆発があり、観客は逃げ惑った。穴あけ機が地面に埋めた爆弾を爆破させて近くにあるかもしれないトンネルを破壊しようとしていた。
その間ブルドーザーはしつこくかき回し……
掘り返し……
そしてドーン!
ティーンエイジャーの中には空き地の土山で遊ぶ者もいた。以前にブルドーザーが積んでいったんだ。
他の友達より目立ちたいんだ。

p186
子供達はイスラエル軍を見るべきかアシムの邪魔をすべきか決めかねている。
アシムに写真を撮られたくないんだ。
アシムを邪魔するのに飽きて、今度は僕の方に来た。
十代の少年にはうんざりだ。
人をバカにしたような気取った態度が嫌いだ。
今日、このクソガキ共の一人が殺られても、そんな残念には思わないな。
子供「ドゥババー」
子供「ドゥババー」
ドゥババー!
戦車ってことだ!
そして突然……

p187
AFVが……
蜘蛛のように……
闇雲に走り回り……
こっちへ……
突進してくる!
みんな逃げる……
命がけで走る……
カメラマンだけ走らない
少年の
写真を
撮りたいんだ。
土手に
一人取り残された少年の……

p188
ふ~。
一休みしなくちゃ。
一休み。
その時一人の女性が前に現れた。
僕のメモ帳を見て
怒りを爆発させてもいいと思ったのだ。
女「子供達に牛乳も食べ物も無いのに、やつらは家を破壊している!」
女「奴らは人間じゃない!動物だ!」
女「ヒトラーだってあいつらにこんな事しなかったじゃないか」
女「ヒトラーは奴らを国外に追い出さなかった!」
女「ヒトラーは奴らの家を破壊したりしなかった!」
女「神に頼むよ、イスラエルやアメリカの子供が私達と同じになりますようにって」
女「孤児になれ!」

p189
女性は通りがかった二人の子供を抱きかかえて
女「この子達はどこに行くと思う?」
子供達は彼女の腕から逃れ、カメラマンが近付いてカメラを顔に向けて10秒ほどぐるぐるし……
すぐ一言も発せず他の物を撮り始めた。
そして今度は別の住民が現れた。
男「なんで写真を撮ってるんだ?」
男「何を撮るつもりだ?」
男「あの家か?」
男「俺の家がテレビに映ったら訴えるぞ!」
その時、男の家に闘士が二人いるのに気付いた。
AFVが一二分おきに一斉射撃してるのも気にせず
空き地を横切って闘士の方へ歩いていった。

p190
男は闘士に怒鳴った。
自分の家の近くからイスラエル軍を撃って欲しくないんだ。
(イスラエル軍の政策は、いいかい、弾が飛んできたと思われる家を全て潰す事なんだ)
更に新しいグループが入ってきた。国際連帯運動の外国人活動家だ。
ラファフにもわずかながらヨーロッパ人やアメリカ人がいて、破壊される可能性の最も高い住宅に住んでいる。
みんなが隠れて避難している時、彼らは空き地に立って横断幕を広げブルドーザーに向って抗議する。
さっきいた土手の所が開けたようなので、アブドと僕は草地を突っ切って現場にもっと近付こうとした。

p191
途中に植物をむしってる男がいた。
男「羊用にね」
先ほどカメラマンと闘士に怒鳴っていた男がいた。
行ったり来たりぐるぐる歩き回っている。
カメラマンにとって彼の家はイメージ写真。
闘士にとっては防御壁。
ブルドーザーにとってはただの仕事。
でも彼にとっては?
人間同士、ちょっと話がしたかったのでメモ帳を閉まって近付いた。
いやいや握手をしてくれたが、僕の眼を見たり、話をしようとはしなかった。
瓦礫があるから僕が来たって思ってるんだ。

p192
一服する時間だ。
今のところ僕らもあまり身動きが取れない。
AFVが片側の家屋を銃撃したり……
時々、逆側を走行して集中射撃したりもしている。
この状況下でも活動家は平和的デモをしている。
「我々は国際連帯運動だ!」
闘士は狙撃しやすい位置を探している。
子供達に怒鳴った。
ついてくるな!
いいか、弾にぶつかったらどうなる?
お前らサッカボールみたいに地面に転がるぞ!

p193
うわ、やば!
見ちゃだめだ!
十代の少年がこっちに来る!
あっちが議論を吹っかけてくる前にこっちから尋ねた。連帯の人をどう思う?
少年「好きじゃないな。あいつらイスラム教徒じゃないから。味方なのか敵なのか分からない」
もしかしてイスラム教徒なのかと聞いてきた。
ジ「いや、僕はイスラム教徒じゃない」
少年「じゃあ地獄行きだな」
ジ「僕がイスラム教徒じゃないと君は怒るのかい?」
少年は考えた。
少年「いや……君は敵じゃない」
ジ「でも友達でもない、だろ?」
少年「その通り」
意見は一致、握手をしたよ。
他の少年にも国際連帯運動について聞いてみた。
少年「僕は連帯運動員になりたいな」
いいやつだ!
少年「本当にね。彼らが近くにいるのは良い事だと思う」

p194
数人が会話に加わってきた。
僕がラファフで何をしているのか知りたがるので、僕の1956年調査を説明した。
少年「それをして良い事あるの?」
少年「海外から来たんだろ。パレスチナ人の何を知ってるっていうんだ?」
少年の一人がイスラエル軍車両の音を身振りで示しながら、
少年「なんであいつらここに来てあんな事するんだ?」
少年「一ヵ月半ぐらい前に俺の家は奴らに破壊されたよ」
ジ「君は今何処に住んでいるの?」
少年「平屋を借りている。ここの近くなんだ」
少年「なぜ僕らの国はこうなんだろう?」
少年「神に近づけていないからさ」
一番良い抵抗方法は何か尋ねてみた。
少年「神に近付く事だ」
少年「爆弾でね」
少年「僕らを気に入ってくれた?」

p195タイトル「アシュラフ」
翌日の早い時間、僕達はイスラエル軍が破壊した場所を見に戻ろうとして、大声で呼び止められた。
長い間行方不明だったアブドの友人に出会ったのだ。
大きな挨拶!
頬にキス!
力強い抱擁!
アブドは長話を我慢して聞いていた。
なぜ連絡を寄こさない?
全く恥ずべき態度だ!
俺が結婚したのを知らないだろ?
娘がいるのも?
こんな事がラファフでは六回ぐらいあった。アブドが旧友と疎遠になってたのは明らかだ。
男の名はアシュラフ。
ハーン・ユーニスで英語を教えている。
今、ムニールの家に行く所だったんだとアブドは説明する。昨日イスラエル軍が破壊していた家だ。
アシュラフ「俺の家も破壊されたよ」
実際、後で分かるんだけど、僕らの目の前でブルドーザーが壊していた、まさにその家だったんだ。
アシュラフ「じゃ、俺も行くよ」

p196
アブドとアシュラフはムニールの家に行く途中、旧交を温めあっていた。
ムニールは家の中に入れてくれた。
彼の母親に挨拶。
母「犬畜生共め」
母「壊していきやがって」
実際はそうでもない。主寝室は少し銃撃を受け、バスルームの壁がブルドーザーにやられて割れてはいたけれども。
ダメージの大部分は家の後ろの方だ。以前に破壊された家屋の瓦礫が押し付けられて、ムニールの家の壁を壊していた。
定期的なイスラエルの破壊攻撃にもかかわらずムニールは家を維持してきたと言う。
家族はフィラデルフィルートに面していない方の部屋で寝て、逆側をイスラエル軍の銃撃から守る壁としていたのだ。
隣人はムニールが諦めないよう励ましていたが、
ムニールにしてみれば、もう終わりだった。
ムニール「新しい家を探して借りるよ」
ム「もうずっと働いてないし」
ム「UNRWAが資金を出してくれるまでは借金だな」
ム「家具は運び出して、家屋は隣人に任せるよ」

p197
隣人「この地域に20軒はあったんだがな」
ムニールに生い立ちを聞かせてくれと頼んだ。
ムニール「じゃテントを持ってきて俺の隣に住みなよ」
でもムニールの話は聞かなかった。間も無くムニールやアシュラフと同じ話をいっぱい聞く事になったからね。
少し離れた所にあるシュラフの家に向った。
フィラデルフィルートとアシュラフ家の間にある住居は全て砂塵と化していた。
インティファーダが始まるとすぐイスラエル軍はこの家を射撃し出したとアシュラフは言う。
妻と一緒にここを去り、Jブロックに家を借り、後に残りの家族も移って来た。
アシュラフ「でも父は毎日ここに来てる」
横玄関の所でアシュラフの父タラルと挨拶を交わした。息子達が出入りして電灯備品や蛍光灯を取り外していた。

p198
昨日受けた奥の部屋や支柱への損傷を詳しく調べた。
タラルは土建業をしており、この家を自分で建てた。一階が完成してからは、家族が少しずつお金を払いながらドアや窓を増やしていった。
しかし六つの窓が撃ち割られたそうだ。
"出て行かないと誰か死ぬぞって訳さ”タラルが言う。
密出国トンネルについて聞いた。IDFによると、それがこの地域で行う破壊活動の主な理由だからだ。
タラル「奴らはこの区域にトンネルがあるって言うけど、それは嘘だ」
タラル「この区域にトンネルがいっぱいだって?」

p199
昨日見た闘士について聞いてみた。彼らの行動はブルドーザーに対して効果があるのだろうか?
アシュラフ「奴らは役立たずだ」
タラル「あのガンマン達は何でも壊しやがる」
タラル「ユダヤ人があいつらを口実にして過酷を破壊してるんだ」
昨日、タラルは闘士達と長く言い争ったのだが、そうしたらやっと彼らは家の前から移動したそうだ。
二人に支柱を直すのか尋ねた。
タラル「この家は破壊されるんだから」
タラル「この地域全部!」
アシュラフは二階に上がり未完成の部屋を見せてくれた。
アシュラフ「ここは俺と妻と子供達の部屋になるはずだったんだ」
アシュラフ「こんないい部屋だったら天国だろうな」
立ち去る時二人の息子がどうにかしてベッドフレームをドアから出そうとしていた。
アシュラフとムニールの家がブルドーザーにやられたのは昨日が初めてだった。
どちらの家もダメージは少なかくて、ほとんどかすった程度だ。
でもこれはたぶんIDFからのメッセージ。
警告だ。
今のうちに運び出せる物は運んでおけよって言ってるんだ。

p200タイトル「時間の管理」
ほぼ毎週アブドと僕は近くのお菓子屋に立ち寄ってケーキ菓子を買いだめした。特に蜂蜜どっぷりのあれこれは朝昼晩のコーヒータイムを彩ってくれた。
カウンター奥にいるこの少年とはここで何度も顔を合わしていたから、ついに、あっちが何をしているんだいと聞いてきた。
アブドは、いい奴だから、又僕の56年プロジェクトを説明してくれていた。
少年は興味なさげだ。
少年「過去はいいよ。今はどうなんだい?」
"今から50年後になれば、お前も忘れられちゃうよ”と言ってやった。
しかしその通りなのだ。若者は56年の話を聞こうとしないし―老人は―
老人は必ずしも証言のプロって訳じゃない。
老人「ユダヤ人がやって来て……」
例えばこの老人は順を追って話す事が出来なかった。
校庭でエジプト兵が殺された話をしてくれたが、義娘が言葉を差し挟む。
義娘「母は1967年の話をしています」
老人「エジプト軍がパレスチナ人を守る為にやって来た」
孫はおばあちゃんが脱線しないようにした
孫「56年の話をしてるんだよ」
老人「奴らは奴らを殺してから、奴らを置き去りにした」
老女の記憶の塔は既に倒壊していた。手探りで記憶の断片を出すのがやっとだったのだ。
老人「彼は頭を撃たれた」
ん?

p201
でも1954年のイスラエル軍侵攻で殺された息子の話をしてくれた。
老人「頼むから息子に会わせてくれと言いました」
老人「でも拒否されて会えませんでした」
老人「息子はよく‘母さん何が欲しい?’って言ってくれたものでした」
老人「‘魚持ってこようか’とか」
老人の中にはもっと記憶がはっきりしている人もいたが、それでも出てくる話は少なかった。
しばしばあの人、この人と紹介されたけど
この人は当の期間ラファフにさえいなかったし……
あの人は砂漠に隠れていて何も見ていなかった。
ラファフの隅々まで捜したけど実を結ばず、疲れてしまって、結局僕とアブドはまともな話が聞けるかどうか出来るだけテストすることにした。
男「どうぞ入って入って……」
入らない!
相手がやかんを火に掛け、また30分もハマってしまう前に玄関先でざっと大体の話をしてもらうようにした。

p202
それでも小さな部屋や長ソファの前で話を聞ける事が何回も有り、アブドが社交辞令の挨拶を切り詰めてから、僕らはすぐ本題に入った。
1956年のあの日、あなたが“あの学校の日”と言う日の出来事を話して欲しいのですが。
何が起きたのか話してもらえますか?
男「話すのは非常に辛い」
男「OK、話ましょう」
話を聞いて、僕らは笑顔で出てくる。

p203
部屋に戻ると僕とアブドはコーヒーを飲んで蜂蜜漬けのお菓子を食べながら、終えてきたインタビューについて話し合う。
この新しい話は19番と比較してみてどうだろう?
20番だっけ?
20番の話は―ところで、僕はインタビューした人に番号を付けたんだ。だって名前をはっきり覚えられないからね―彼の話をどう思う?
アブド「友達が殺された話?」
調査を進めて56年のあの日の姿が明らかになるにつれ、僕達は聞いてきた話をもっと批判的に見るようになった。
アブド「誇張してると思う」
アブドも僕と同じ位のめり込んできた。
もう一本クレオパトラに火を付けチャートに詳細を書き込んだ。
名前と住居地を……
記入して……
枠の中に“通告”……“学校へ移動”……“入口”……“待機”……“選別”……などを書き入れていった。
アブドと僕は極めて系統だった調査をし大きな事件をその構成要素へと一つ一つ仕分けていった。
表を作る事で目撃者の証言をすぐに比較検討できるようになった。
そして、
再び、
リフレッシュしてエネルギー充填、
靴を履いて
意気揚々と階段を降りて……

p204
海岸通りへ向う……
1956年のあの日はこんな感じ。ラファフが陥落してまだ数日、敗戦の混乱がまだ落ち着いていなかった。
一台の軍用車が現れ、
拡声器を使って、
通告を始めた……

p205タイトル「通告」
“忘れられない日だった”
“1956年11月12日”
“脳に刻み込まれている”
“月曜日だった……”
“ユダヤ人がラウドスピーカーで15歳から60歳までの男性は学校に集まれと言って回っていた”アワダラー・アーメド・アワダラー
「朝六時か六時半に拡声器で16歳から60歳までの人は全員、ラファフの政府学校に来るよう告げていた」
ハリル・アーメド・モハメド・イブラヒム
「……夜に‘15歳から60歳まではラファフの政府学校に行くよう’呼びかけていた」
モハメド・ユセフ・シェイカー・ムーサ
「……15歳から50歳までの若い人達はあの学校に行けと拡声器で呼びかけてた」
モハメド・ジュマエルグール
「拡声器で言ってたな‘16歳から60歳までの人は全員あの学校に行け’って」
アーメド・ハリル・アルベワブ
「奴らは、15歳から50歳までは全員、各学校に行くように呼びかけて出した。各地区に学校があったから」
モハメド・アブ・アンマラー「15歳以上の男性は―14歳だったかもしれんが―エル・アメーリア学校に集まるよう拡声器で言ってた」
モヒ・エルディン・イブラヒム・ラフィ

p206
回想に多少違いはあっても、兵役年齢の男性は全て集まるように命令されたのだ。
しかしジープは数本の大通り―特に海岸通り―だけを通告して回ったようだ。
「拡声器の音は聞こえたが、何を言っているのか分からなかった」
モサ・アブドゥラ・アルハッジ・モハメド
「拡声器は聞こえなかった。多くの人が遅れて行ったよ」
ユセフ・イスマエル・フーダ
“人々はお互いに伝え合いだして―”
「通告があったぞ!」
「通告があったぞ!」

p207
「家にいると誰かが走ってる音がした」
ザキ・ハッサン・エドワン
「何があった?」
「拡声器で呼んでる」
「君も学校に行かないと」
「あと10分以内に着いてないと」
ガニム・マハムード・シャアト:“(いとこの)エラブドは兄弟が戻ってくるまで待とうと言ったんだ”
エラブド「……そしたら一緒に行こう」
“兄弟が木枝を背負って帰ってくるのが見えた。人々はもう道を歩いていた。
”エラブドはひげを剃って、
“着替えて……
エラブド「さぁ行こう」
”僕達は落ち着いていた。何が起こるのか知らなかったから”

p208タイトル「海岸通り」

アイェシュ・アブデルハリク・ユーニスに会うまで時間がかかった。
初め、彼はメッカ巡礼に出かけていて、帰ってきてからは慣習としてお客さんを迎えたり小さな贈り物を配ったりして数日を費やした。
その後、数日休ますませてくれと言われて、
今やっと、僕達はアイェシュの寒い部屋で、あの11月の朝の話を座って聞いている。
アイェシュ「あの日太陽は輝いて光を放射し、間も無く死の放射が始まるだろうと告げていた」
でも、レトリックな表現には興味なし。アイェシュが村長として一族の相談に乗り、争そい事を解決してきた経験で磨いた表現ではあったけれど。
僕達が知りたいのは、当時UNRWAの先生だったアイェシュ21歳が目にした状況だ。
アイェシュ「いとこの声で起きたんだ‘起きないと奴らに殺されるぞ’って」

p209
“パジャマのまま玄関から通りにでるなんて(先生として)恥ずかしいと思ったんだ。
「急いで!」
「時間は無いのよ!」
“でも私は服を着替えて、それから出て行った。
“我が家は海岸通りに面しており、
“兵士が通りにいて、色んな方向から射撃していたから
“全速力で走り出したよ”
「私達はまとまって学校へ歩いていた」
匿名1
“海岸通りに出た、今はガソリンスタンドになってる所。
“普通に歩いていたら
兵士「急げ!急げ!」
“私を撃ってきた……
“手を挙げろと言われて、私は走り出した、
“で、後ろにいた人達も走り出した。

p210
「奴らは言い続けた‘走れ!走れ!’って」
「早くしろ!急げ!」
アブドゥルマリク・モハメド・クッラブ
“蟻みたいだった……人々が……キャンプから出てくる皆が”
兵役年齢以下の子供の中には怖くて家に残っていれないのもいた。
「至る所で銃撃があったから、父親について行ったんだ」
ハムディ・ハジェジ
“大通りに出ると数メートル置きに兵士のグループがいて棍棒を持って怒鳴っていた。
「急げ!急げ!」
“私は殴られなかったけど、多くの人が棍棒で殴られていた。
“兵士が道の両側に立って人々が横道に入らないようにしていたし、兵士はキャンプ中(どこにでも)いた。
キャンプでは銃撃があったよ”

p211
ハリル・アーメド・モハメド・イブラヒムは当時警察官で制服を来て学校へ向っていた。
「制服姿の私を見ると、皆近寄って付いて来た。皆怖がってたから」
“軍隊がいて、好き勝手に発砲していた……
「どうしよう?どうしよう?」
ハリル「神のご加護を」
ハリル「行けば分かるだろう」
“一人のイスラエル兵がアラビア語で命令した。
兵士「戻ってあそこにいるやつらを連れて来い!」
“背中を向けたら撃たれると思ってね。左半身はこわばっていたよ」
ハリル「来い!」
ハリル「来い!」
“最初に私といたグループは先に行っており
“今度は別のグループが私と一緒に歩く事になった”

p212
モハメド・ジダン:“私は二人の叔父とその息子達と一緒でした。隣人も含め約30人ぐらい……大通りに向うと……町中からでひどい銃撃音がしていました。まとまって移動した方が安全だと皆思ってました。
マイクを付けた車が東側からこちらに向って来ました。
“手を挙げて学校へ走れと(兵士が)言って行きました。
“道路脇に……死体が……
“アブド・アティヤ・シャアトでした
“35歳だったと思います。
“三人の女性が来てその死体を引き摺っていきました。
“私達は少し立ち止まり、戻った方が良いのではと思いました……そしてキャンプの細道に戻りました。
“軍用車が戻って来ました。
“何人かがジープの所まで行き、通りで銃撃があったと伝えました”
男「道に死体がありました」
兵士「銃撃、銃撃。気にするな」
兵士「お前達は学校へ行け」
兵士「家宅捜索するから男が家にいたら殺すぞ」

p213
「叔父と一緒に家を出ました」
アブデル・ハディ・モハメド・ラフィ
“銃撃音がして、私は戻りましたが…叔父は行ってしまいました。
“叔父は射殺されました。私は見てませんが。
“子供や女性達が私を説得して学校へ行かせました……
“隣人が何人かいたので、それに付いて行きました”
「兵士がたくさん道路や交差点にいました」
匿名2
“奴らは気分次第で人を撃ったり撃たなかったりしてると思いました……
“命令を受けてやってるのか、ただそうしたい気分なのか、私には分かりませんでした……”
「兵士達は言ってました」
アーメド・ハリル・アルバワブ
兵士「こいつはフェダイーンだ」
兵士「こいつはフェダイーンだ」

p214
“アブデルガーニ・アルアスマルが目の前で撃たれました……近寄った彼の息子も撃たれました”
「私の前を走ってた男が撃たれて倒れました」
ガキ・ハッサン・エドワン
“私に何ができましょう?
“彼の上を飛び越えました”
父と三人の兄が家を出ました。
匿名3
“私達は泣き叫びました
“私はついて行ったんですが、数分後に
“兵士達が空に発砲し始めました
“家の前がすぐ大通りなので、窓横の穴から覗いていました。
“手を頭に載せて一人一人一列で壁に沿って走ってました。片側に兵士、もう一方に人々が。

p215
“走ってた男が撃たれました。後ろに兄弟がいて……
“立ち止まりました……人々は走るよう言いました。
「もう死んでる!」
「君は生きなくちゃ!」
“男の名前はジャミル・スワイルでした”
モハメド・ジダン:兵士が大勢いいた。立ってるのもいれば、機関銃を設置してうつぶせになっているのもいて、前を通り過ぎるグループを狙撃していた。

p216
“負傷したり撃たれた者は置いていかれ、人々は走り続けた。この通りで三、四体の死体を見たかもしれない。グループ毎に一二名が殺されていた。
“(UNRWA食料)配給センターに着いた時、面白い光景を目にした。
“道が靴だらけになってたんだ……”
アイェシュ・アブデルハルク・ユーニスの話に戻ろう。彼の記憶は鮮明なので、地図の助けを借りながら、イスラエル軍がどのように人々を移動させたのか思い出してもらう。人々は海岸通りを通って東側にある学校へと追い立てられた。
アイェシュ「発砲は至る所であって、私はこの地点まで来た―」
アブド「僕達のアパートの隣、駐車場との間あたりだ」
“そこでは兵士がうつぶせになって重機関銃やブレン銃で時々、人々を撃っていた”
ジ「人々に向って好き勝手に撃ってたの?」
“正直に言うと、私の考えでは、人々を威嚇しようとしてただけだと思うんだけど、後に、意図的に射殺してる場合もあったと聞いたよ

p217
“(男性は)蜘蛛の巣状に追われ群がっていた。
”通りの南側、草地になってるこの地域から入ってきて海岸通りの人々に合流する者もいた。
“こちら側に兵士がいて……
”あちらにも。私達は挟まれながら進んだ……
“この区域には人々を沿って走らせる壁が無かったので……
“もちろん奴らは手に棍棒を持っていたので自由に人を殴っていた……
“こんな感じで配給センターを通り越した。この地点までで一人死んでいた。その人はアジェール(村)のジャミルでした。
建物の位置はおおよそ。
人々はここから海岸通りの北側を走らされる。(次頁参照)

p218
“こうやって道の南側を移動してきて、(現在の)消防署まで来ると……ちょうどそこから北側へ押され、殴られ、撃たれながら移動しました。
先ほど、ガニム・マハムード・シャアトが兄弟といとこのエラブドと一緒に出て行くところまで見たけれども、
ガニム・マハムード・シャアト:“狭い道を歩いていました。エラブドが前で私は後ろ”
“学校の角まで来た時、タバコを取り出しました。
“すると突然二台のジープが来て……
兵士「手を挙げろ、馬鹿者!」
ガニム「しゃべって」
ガニム「何か言ってくれ!」

p219
“エラブドの側に座っているとジープが戻って来ました。
“女性が家から出て来て私を引っ張り込んでドアを閉めました。
“ジープがいなくなってから、その女性は毛布を持ってきて別の女性と一緒に遺体を運んで……
キャンプに戻りました。
“殉教者をいとこの家に運んで来るとエラブドの父が聞きました
エラブドの父「これは何だ?」
エラブドの父「何を運んで来た?」
“彼は大声で泣き叫びました。
“老人達は私に学校へ行くよう言いました”
老人「命を大切にしろ。二人も死んで欲しくない」
ガニム「いやだ。行かない」
「兵士がキャンプに入ってきたぞ!」
老人達はガニムの自宅まで付き添ってくれたが、家には女性と親類、隣人で一杯だった。
“手と顔を洗って横になりました。
“外側のドアを開けたままにして”

p220
モハメド・アトワ・アルナジェーリは面白い男で、彼のストーリーはラファフでは有名だ。とても信じられない話を聞こう。
モハメド「マサムハ一家の人が七八人いたので……」
モハメド「彼らに加わったんだ」
“海岸通りを歩いていた、手を挙げて、学校の方にね……
“隣人がいたよ。床屋のスワイレだ
“イスラエル軍に殺されたばかりだった。
“配給センターの前を通り過ぎて……道沿いに兵士が立ってて……

p221
“(一人の兵士が)俺のグループに若者がいるのに気付いて、
“撃ち始めた
“俺達を撃ち始めた、
“俺達全員を。
“地面に倒れたけど後ろから人がどんどん来て俺達を踏んでいった
“間も無く死ぬと思った。

p222
“地面に倒れた男をつねってみたけど反応無し。
“背中側にいた者も、同じく反応無し。
“皆死んだ。俺は生きてる。受けたのは一発だけ。
“人々は俺の首を踏んでいく!”
「私はかっこうう服を着てハンサムだったから」
「あの時は撃つにはもったいない男だったよ」
「今なら撃たれてもしょうがない」
“ハッタを脱いで……兵士に言った:
モハメド「こっちに来て、俺を撃て」
“兵士は来なかった。
“もう一度言うと……
モハメド「こっち来い」
モハメド「こっち来い」
モハメド「来て撃て」
モハメド「俺はまだ生きてんだ」
“兵士は銃を取り出し、挿弾子を入れて
“こっちに向って来て……
“体の前に立った”
モハメド「神の他に神は無し」

p223
モハメド「頭に36発撃たれた……」
モハメド「36発!」
ジ「頭に?」
モハメド「挿弾子一個分丸々」
モハメド「36発が頭に」
モハメド「出来の悪い兵士だったんだ」
モハメド「プロじゃなかった」
モハメド「俺が上官だったら首にしてるね」
“俺はあおむけになった。
“目、口、頭は血だらけだ”
“ユダヤ人は俺達をどかして道を空けるよう人々に命令していた。
“俺は脚を持って引き摺られて、頭が地面でゴツンゴツン跳ねた。

p224
“誰かが俺の身分証を見つけようと服をまさぐってるのが分かった―”
モハメド「―で、もし他の物が有れば取っちまおうと」
“体中から血が吹き出していて、
“血の海に沈んでいたよ”
モハメド「1956年から今まで苦しんできた」
モハメド「歳を取るに連れて痛みが増すんだ」
部屋に戻ったが、僕には理解できないでいた。至近距離から36発も撃たれて生存しているって事が。
でも……
ジ「ハニは至近距離から七回撃たれて、傷は僕も見せてもらった」
アブド「ハーン・ユーニスには腹を42回撃たれて、自分で腸を持って病院に行った男もいるよ」
アブド「有名な話さ」
それでも、僕はとても懐疑的だ。モハメドがそんなに沢山の弾をくらっていながら、生き延びたって事に。だってどうして何発撃たれたのか分かるんだい?自動銃は速過ぎて数えれないよ、特に、自分が撃たれてる最中には。
誇張であるにしろ無いにしろ、モハメドが撃たれたのは間違いない。
モハメドのもとを去る間際、彼は僕に頭にあるくぼみを指で触ってみろと言ってきかなかった。

p225タイトル「校舎の壁」
モハメド・アトワ・アルナジェーリが重傷を負い地面に転がっていた間にも、ラファフ男性の大流は学校へと近付いていた。そこから人々はさらに厳しい試練へと漏斗状に飲み込まれていくのである。
「……人々が手を挙げたまま学校の壁に並んでいるのを見て、驚いたよ」
ハリル・アーメド・モハメド・イブラヒム
こんにち、その壁の所は小さな店が立ち並びカセットテープからハンドバッグまで何でも売られている。
当時は剥き出しでぼろぼろの壁でちょうど頭位の高さだった。

p226
「他の人達と同様に、壁に沿って立ち……」
「私達は片一方に。兵士は道の真ん中に立ってました」
アワド・モハメド・アーメド
“兵士の命令に従って私達は壁に沿って一歩ずつ歩きました”
兵士「止まれ!」
兵士「歩け!」
「ユダヤ人は私達に壁の前に並ぶよう言い、そして銃を撃ちました」
「倒れたのもいれば、生き残ったのもいました」
匿名4
「生き残った人達は歩き続け(るよう言われ)、また別のグループが来て壁に並ばされました」
“そしてもう一度。またもう一度”

p227
「何度も壁沿いに止まりました」
「歩け、止まれ!」
「止まれと怒鳴られ」
「止まれ!」
「歩け!」
「止まれ!」
「歩け!」
「その間、手は挙げっぱなし」
「顔は壁を向いたまま」
「壁に沿って移動しました」
「移動している際も射撃は続いていました……」
“地面には沢山の死体が有り、私達はその上を歩きました……”
ジ「何体ぐらい見ましたか、だいたいで?」
「あの時は何も見れませんでした」
「あぁぁとても怖かったんです」
「とても怖がってる人間が何かを見ていれると思いますか?」

p228
モハメド・ジダン:“そして私達の頭上や足元を撃ち出したのです」
“同僚のアーメド・アルアブドが壁に沿って立ってる時、耳の下を撃たれました……
“耳から血を流しているのが見えました……
“やつらは私達を止めて、適当に狙撃して、学校に入れと命じました。それから次のグループを並ばせました。
“人々を撃ち終わった兵士が言いました”
兵士「さぁ走れ!」
兵士「走れ!」

p229
「学校に近くなると徐々にぎゅうぎゅうになってきました。一人ずつ学校に入っていたからです」
ザキ・ハッサン・エドワン
“どこに行ける?飛ぶか?壁を飛び越えるか?
“何処に向っているのか分かりませんでした……
“壁が倒壊したら逃げられるのにと思ってました”
「たくさん靴があってとても歩きにくかった。みんな靴を脱ぎ捨てて行ったんだ」
校門に着く前に、10メートルぐらい前かな、軍のジープが来て
ハリル・アーメド・モハメド・イブラヒム
兵士「奴らを学校に入れろ」

p230
「(義兄の)サレ・ハッサン・アワジャは止まって壁に向って立つよう兵士に言われ、銃で二三回殴られました」
アーメド・ハリル・アルバワブ
アーメド「彼の近くに立ってたのです。ちょうどこの子供の位置くらいの近くに」
「兵士は大勢の人を校門の所で止めていましたが、有刺鉄線をどかして人々を中に入れました」
「止まれ怒鳴る声が聞こえましたが、私達は校内に入りました」
アブデルワハブ・マハムード・アブデルワハブ・アルアスマル

p231タイトル「校門」
なんでこんな事が?
なぜラファフの人を壁に立たせ、走らせ、立たせ、走らせたのか?
威嚇する為?
一回に学校に押し込む人数を調整する為?
死体を片付ける時間を取る為?
学校に早く着いた人々はこんな風に壁に立たされたりしなかった。
校門の向かいの区域に居住していた人々の中には、海岸通りで銃撃を受けたり、壁に沿ってずっと歩かされたりせずに済んだ者もいた。
その一人がモハメド・ユセフ・シェイカー・ムーサだ。
モハメドはあの日の行動を辿りながら、どうやってムーサや父や他の人々がサボテン畑の細い道を通って海岸通りに出たか説明した。出た所はほぼ校門正面だった。
“人々がこの狭い道を使ってるのに気付き、イスラエル軍はやって来て道の両側に立ち……
“通り抜けようとする者を殴っていました”
モハメド「道の出口で殴られました」
モハメド「それがまず一発目でした」

p232
“道路は学校に向う人々で溢れていて、兵士は見境無く殴っていました。
“西側の壁を越えて学校に飛び込む人もいました。当時あっちの壁は低かったのです。
“兵士の数より多かったので、沢山の人があらゆる方向から入ってきました”
ファティマ・アルハティーブ通りに移動する。この道が海岸通りへ合流する。
モハメド「あの赤い車の所で」
“10か11体の死体が地面に転がってました。
“全員殺されていました。殺人そのものは見てませんが、死体はありました。
“死体は適当に打ち捨てられていました。

p233
“誰も他人を気にしてられません……学校に入らなくてはなりませんから。
“大勢が転び……
“その上にまた人が転倒しました。
“入口はとても狭い上に、人々が殺到していました”
入口は当時トタン板でこんにちのような厚い鉄扉ではなっかそうだ。
ラファフの男達が校門に着くとそこには溝と有刺鉄線があって道を塞いでいたそうだ。

p234
さあいよいよ酷い話が始まる。年老いて精神が鈍磨した人でさえ怒りを抑えられない話だ。
なかには有刺鉄線を憶えていない人や、溝を覚えていない人もいるが、それでもほとんどの人が校門の所で憶えてるものがある―
つまり、重い棍棒を持った兵士だ。
モハメド「門の所で殴られた」
モ「今でも頭に傷がある」
“私は頭から血を流し、他の人も頭から血を流していた。
“有刺鉄線を跳び越え……
“人々が集まってる所に行って座りました”

p235
「頭を殴られて」
「頭が割れました」
「今でも時々痛みます」
「今でも」
イスマエル・アブドゥラ・ファラハト
“目の前には有刺鉄線。
“私は若くて元気があって強かったから良かった。
“有刺鉄線を飛び越えられました”
「中に兵士がいました……重い棍棒を持って」
「中に入るまでその兵士は見えないんです」
モサ・アブドゥラ・アルハッジ・モハメド
“私達三人が学校に入りました。
“一人目は兵士に殴られ、
“二人目はかわしました
「そして私の番です」
「こうやって」
“溝を跳び越しました”

p236
「学校には有刺鉄線と地面に穴がありました」
アイェシュ・アブデルハリク・ユーニス
“人々は急いで学校に入らねばならず、もし穴に落ちてしまえば、そこで殺されるのです……
“私は壁側にいるようにしたので、他の人達とは違って動きやすかったのです。
“門の側まで来た時、私は横をすり抜けたのです。

p237
「兵士が一人、棍棒を持って、入ってくる人全員を殴ってました」
「大きい棒です」
匿名4
“一人ずつ
“一人ずつ
“私も棒で殴られた一人です”
「そして校門まで来ました」
ザキ・ハッサン・エドワン
“両側に有刺鉄線があってそこを通らなくてはなりませんでした。
“二人の兵士が重い棍棒、大きい木槌みたいなのを持って、入って来た人全員を殴ってました……
“私の前にいた男は頭を殴られ、血が体に垂れていました。
“有刺鉄線を前にして、どうやって跳んだのか憶えていません”
「兵士が棍棒を持って門の両側に立っていました。大きい棍棒です」
匿名2
“頭を殴られ
“顔を殴られ
“脚を殴られ
“腕を殴られました”

p238
「入口に棍棒を持った二人の兵士がいて、入ろうとする者を残らず殴ってました」
アーメド・ハリル・アルバワブ
「二人のイスラエル兵がいて……大きな棍棒を持ち、入って来る者全てを殴ってました」
「ある者は倒れ、ある者はかわしました」
モハメド・ジュマエルグール
「我々が学校に着くと、溝があって、兵士は重い棍棒で人々を殴りながら、溝を跳び越えさせようとしていました」
「私は殴られませんでした」
モハメド・はシム・イブラヒム・アブ・タリブ
「あっちに兵士が二人、」
「こっちに兵士が二人」
「で、入った人々は皆、棍棒で頭を殴られました」
「よく憶えている事があります。三、四人のイスラエル兵が1.5~2メートルぐらいの棍棒を持っていたのです」
「私は殴られませんでした。体が軽くて機敏でしたから。運が良かったのかもしれませんが」
モハメド・ハッサン・モハメド
「どうにか殴られずに中に入りました」
イブラヒム・セイカー
「校門で立っていた兵士に殴られました。棍棒で、肩や体中を」
アブデル・ディ・モハメド・ラフィ

p239
先述の警官ハリル・アーメド・モハメドが校門に近付いていた時、同僚が一人加わった。
ハリル「その男も警官だったが制服は着ていなかった」
ハ「校門まで約4~5メートル……」
ハ「門に着いた時、右を向くと二つの死体、男性二人が殺されていた」
“15メートルくらい先のファティマ・アル・ハテーブ通りの所だ。もしかしたら友人かも知れないと思った。その区域に友人がいたから”
ハ「死体を見た時どう歩いていたのか憶えていない」
ハ「自失していたのだ」
ハ「同僚の警官と歩きながら」
ハ「学校に向っていた」

p240
“背の低い兵士が、1m50cmぐらいかな、重い棍棒を持っていた。
“その兵士の方に向って行った。
ハ「ただ歩いていた」
ハ「呆然として……」
ハ「兵士が持ってた棍棒は鉄製だった」
同僚「何処に行く?」
同僚「何処に行く?」
同僚「殺されたいのか?」
同僚「こっちに来い!」
ハ「彼は私を引っ張って列から離しました」
ハ「そこで目が覚めたのです」
“我々は歩き続けました。同僚が私を案内する感じで。私は何処に向ってるのか知らなかったから。
“ただ歩き続けた。
“歩き続けた。

p241
“(警察)署に着くと、我々は……近くの一室に連れて行かれた。イスラエル軍は我々を部屋に入れ、ドアに鍵をかけて、歩哨を立たせた。
“歩哨は数分置きに発砲しただ我々を威嚇しました。
“歩哨がいるぞと示す為だけに”
イスラエル軍は威嚇していたにもかかわらず地元の警察官が軍の役に立つと考えていた。
ガザの占領を強化する為に警官の協力をあおぐつもりだったのだ。
「(学校の)門にはかなり(の数)の靴がありました」
モサ・アーメド・アルクィーシ
“靴を脱ぐもんだと皆思ったのです……”
“靴を脱いでる間もイスラエル兵に殴られていました”
「私も靴を脱ぎました」
「アブドゥラ(モハメド・アーメド・アルアルガン)は私の前にいて、私達はくっついて歩いてました」
サレ・メヒ・エルディン・アルアルガン
“ユダヤ兵が来てアブドゥラの頭を棍棒で殴りました。
“彼はうつぶせに倒れました。

p242
“彼は道の反対側に引き摺られて行きました……
“兵士が死体を道路から運んできて、小麦袋を投げるみたいにして死体を車に積んでいました”
アブド「あなたと一緒に歩いていたとします、いいですね?」
アブド「アブドゥラはあなたの前」
アブド「アブドゥラは殴られて、あなたは歩き続けた?」
サレ「歩き続けて」
サレ「学校に入った」
サレ「血を流すアブドゥラを校門に残したまま」
アワド・モハメド・アーメドが僕のメモ帳に校門の状況を描いてくれた。
アワド「ここが角で」
アワド「この角にジープが二台止まっていた」

p243
“誰かが倒れたら兵士がジープまで引き摺って行った。死んでようが、生きてようが関係なく。
“一台のジープに四人積んだら
“西側に運んで行った”
ジ「自分でそのジープを見たんですか?死体を運んでるのを見たんですか?」
アワド「何体も死体を引き摺ってるのを見たし、運んで行ったのは一度見た」
“一人(の男は)ムクターの服<村長を現す服>を着ていて、もう一人はアブドゥラ・アルガンという男だった”
アワドは額の前に手を当てて示した。
頭を勝ち割られていたんだ。
「殴られて倒れた者は全員死にました」
アーメド・ハッサン・エドワン
“たとえその時は生きていても、結局銃殺されました”
ジ「ご自分の目で見たのですか?」
アーメド「もちろん、何体も転がってるのを目にしてから溝を跳び越えたんです……」
“私は背が高くて力もあったので、さっと跳び越えましたが……”

p244
「一時も忘れた事は無いよ」
モヒ・エルディン・イブラヒム・ラフィ
“私の前にいた男が学校に入った時、
“頭を殴られていた”
モヒ「……男は倒れ、地面につっぷした。鶏を屠殺してるような音がしました」
倒れた男になにが起きたのか振り返って見ると……もう一人来て男を殺していました。
“棍棒を頭に打ち込んで”
ジ「殺された男の名前は?」
モヒ「名前は知らない」
モヒ「あの時はそんなの無理だ」
モヒ「最後の審判の日みたいだった」

p245タイトル「ソロモン」
1956年であれ何時であれ、人生は続き、今やるべき事がある。アブドは大学願書と奨学金申請書の締切をクリアしなくてはならない。―なのでガザ市に戻ってアブドの小論文が書き上がるよう手伝っているところだ。
でもなかなか書き上がらない。
またあの騒音が始まったからね!
慰霊テント!
ラウドスピーカーじゃら大音量の愛国歌!
哀悼のメッセージ!
ジハードへの奨励!
昨日ハマスの兵士六名が不思議な状況で爆破によりバラバラにされた。
暗殺されたのか?
“作業中”の事故死なのか?
それはどちらの話を聞くかによる。
僕達はヘリコプターの旋回する音を聞きながら眠りに落ちた。
朝5時に凄い銃撃が始まった。
パレスチナ人11名が殺された。
7人はここ、ガザ市で。
4人は近くのジャバリア難民キャンプで。

p246
翌日ガザ南部に戻る途中、運転手は興奮していた。ロンドンでパレスチナ人代表がイスラエルと“安全交渉”をしていたからだ。
運転手「奴らは座って話をして、で、こっち来て我々を殺すんだ!」
運転手「なんでアルシェジャヤ(*)になんか入ってきたんだ?」
(*)アルシェジャヤ:ガザ市近郊の町。その日の朝攻撃を受けていた。
運転手「何があるってんだ?」
男「イスラム聖戦の男の家を破壊したんだ」
男「約一年前にクファー・ダロム入植地で自爆攻撃した男の家だ」
アブ・フーリに着くと検問所は閉まっていた。
運「11人も殺した上に道路まで塞ぎやがる!」
運「これじゃラファフに着くまで4時間かかるぞ!」
運「4時間あったら、アメリカに着いちまうよ」
あぁ。
しばらくは身動きが取れない。
脚でも伸ばそうか。

p247
大勢のタクシー運転手が諦めていた。
客を降ろしてガザ市に戻って行った。
客は自分で他の車と交渉し乗せてくれと頼んでいた。
30分後渋滞が動き出した。
そして20メートルくらい進んでまた止まった。
運「また閉めやがった」
子供「誰が閉めたの」
運「ソロモン」<三上注:古代イスラエル王国の王様>

p248タイトル「昔も今もひどいまま」
アシュラフ「ちょっとずつ、ちょっとずつ、ちょっとずつやりやがる!」
僕達がアシュラフの家を離れてからもブルドーザーは戻って来ていたのだ。
アシュラフの父親はまだ家に来てるのか尋ねた。
アシュラフ「ああ、日中はね」
アシュラフ「家の前に座っているよ」
近くの破壊された家屋を何軒か回った。人は住んでいない。
アシュラフ「この家も父が建てたんだ。俺も手伝ったよ」
実際、アシュラフの父の建築会社はこの区域で沢山家を建てたが、今は完全に破壊されてしまっていた。
アシュラフ「ここに家があったんだ」
アシュラフ「どこに行ってしまったんだ?」

p249
アシュラフは今借りているJブロックのアパートに招待してくれた。56年プロジェクトに話を一つ加えるそうだ。祖父がラファフで殺されていたのだ。
でもアシュラフは勘違いしていた。
こんにちを生きる多くのパレスチナ人青年と同様に、アシュラフは過去の出来事を間違って憶えていた。
アシュラフの祖父はラファフではなく、ハーン・ユーニスで殺されていた。
母親のワスフェヤが語ってくれる。
母「私は父の側に座っていました。ちょうど今あなた方がアシュラフの横にいるようにね」
母「突然兵士が一人入ってきて警告も無しに撃ち出しました」
父「近頃は56年当時より悪くなっている」
母「当時の方が辛かったですよ。家族の前で男性は殺されたんですから」
?「いやな事をいっぱい思い出してしまうんだね」
ワスフェヤは父を思い出そうとしていた。
母「私は父をほとんど憶えていません」

p250
父「56年で話は終わらないんだ」
父「今でも続いているんだ」
父「私達はゆだやを人を隣人として一緒に暮らせたらな、と思っていた」
父「アブ・アンマル(*)がユダヤ人に多くを差し出した時でさえ、私達は許した」
(*)アブ・アンマル:ヤセル・アラファト
父「なぜならその平和で、私達は土地を買って息子の将来の為に家を建てられたのだから」
父「でもその家が目の前で破壊されるのを見たら、そんなの平和じゃないだろ?」
父「世界中は私達をテロリストと批判しています」
父「自宅にいたら家を破壊されたような人々がテロリストだと思われているんだ!」
アシュラフの父親は文書を数枚見せてくれたが、その中にはラファフ市当局の許可証の写しがあった。家を建て、配電し、排水路の工事を開始してよいという文書だ。
土地と家と文書作成の費用は40,000ヨルダンディナール、約57000ドルだ。
父「私の人生は終わった」
父「息子は結婚する予定ですが」
父「息子の為に何処に家を見つけてあげられるのか?」
アシュラフ「テントを見つけてあげなよ」
父「物置を二つ借りて家具をしまってある」
父「家が無くなったのでアシュラフと住む事になった」
父「息子と住むか路上生活するしかないな」
アシュラフ「僕が息子を追い出すかもね」

p251
父「この状況はいつまで続くのか?」
父「家の無い男に威厳は無い」
父「昨日、借家を探したが、無理だった」
父「二箇所見たが、頭金は1,000ヨルダンディナールだと大家に言われた!」
でもなぜ今でもあの逃げてきた家を訪れるのですか?
父「ただ見詰めていたいんだ。私が全人生をかけて夢見た物を」
父「私は家を壊されるような事をしたのか?」
父「私がテロリストだとでも?」
アシュラフ「自爆攻撃を覚悟してくれ」
父「自爆攻撃は私達も危ない」
父「分かるだろ」
その時誰かが訪ねて来た。
アシュラフは席を外し、数分訪問者と話をしていた。訪問者は建築備品をアシュラフ一家に売ったのだが、その支払いは何時なのか聞きに来たのだ。
母「人々は冷たいね」
母「数日前に家が破壊されたばかりだってのに、もう金を払ってくれって来るんだから」
母「あの家を持ってったらいいんだ」
アシュラフ「しばらく訪ねて来ないよう言ったよ」

p252タイトル「神の意思」
ある晩、僕達はある男にインタビューしていた。ラル・ゾロブ地区に住んでるラファフ“原住者”だ。
男「56年の事は思い出しにくいな、いつもの日常だったから」
男「なぜって?」
男「次から次へと事件が起きていたから」
男の息子も話を聞いていたが、だんだん口を挟んできて、そして―
息子「なぜ56年の事を書く?」
息子「今の方がひどいんだ、父も言ってるだろ」
ジ「もちろん今もひぢけど、だからといって、当時の事が軽くはならないだろ」
息子「56年?」
息子「OK、本を書けよ」
しかし家から出た時、息子は僕の手首をつかんだ。
道の向こうにある自宅を僕に見せたいんだ。
でも家に着く前にポスターの前で止まった。
息子「これが見えるか?」
息子「俺のいとこだ」
息子「すぐそこで殺された」

p253
彼は家の中の銃痕を見せる。
この部屋……
そして別の部屋……
また別の部屋。
ジ「これはいつの痕?」
息子「いつも!」
ゾロブ塔から一斉射撃を受けたそうだ。約50km先に見える二つの光がその塔だ。
息子「56年?」
息子「56年?」
バスルームの窓は塔に面している。
息子「子供達は恐れてトイレに入らないんだ」
息子「この位置で子供達は勉強していたんだ」
息子「でも三日前戦車がすぐそこまで来てた」
息子「すぐそこだ!」
息子「ここじゃ毎日が56年なんだ!」
息子「56年は終わった」
息子「56年は祖父母の時だ
息子「でもこれは―」
息子「息子は生きてるんだ!」
息子「俺だって生きてるんだ!」

p254
この男の父親が言ったように、事件は続いている。
昨夜イスラエル軍はここから数キロ離れたブレイジキャンプを攻撃し、8人殺した。一昨日の晩はハーン・ユーニスを攻撃して2人殺した……
午前中にアブドとハレドと僕は損傷を見にハーン・ユーニスに行った。
8階建ての建物、トウフィー近隣では最大の建物だったのだが、IDFによって破壊されていた。
イスラエル軍によるとパレスチナ人闘士がここを監視基地として使い、近くのIDF基地を銃撃していると言う。

p255
アブドはこの説明を一笑に付した。
アブド「僕は以前、ジャーナリストをここに連れてきて、このビルの屋上から入植地を映せるかどうか試そうとしたんだ―」
―でもビルのオーナーは頑として許可しなかったそうだ。取材カメラがIDFに見つかってトラブルになるのを恐れたのだ。
だからオーナーが闘士に屋上を使わせる訳ないだろ?とアブドは言う。

p256
とにかく、これで90人ぐらいが新たにホームレスになった。近所の大勢もそうなった。
近くの建物も粉砕された。
アブドと僕は以前に見た場所をチェックしに行った。
ユダヤ人入植地を囲む壁
ここがイスラエル軍ブルドーザーが地面を掘り返した跡だ。ぐちゃぐちゃのアイスクリームみたいだ。
イスラエル軍基地
この穴地に破壊した家屋を押し埋めたのだ。

p257
ジ「ここ前来たとこ?」
アブド「そうだよ、あの時の冷蔵庫がある」
すぐ近くでサブハという女性に偶然出くわした。
先月会った時には家が少し壊されていた女性だ。
今家は完全に無くなっている。
サブハ「キャンプに家を借りてます」
サ「UNRWAは私の家が破壊されたのを知ってますが、まだ賠償はしてくれません」
サ「ここの行政区域も私達の事を分かっています」
サ「どうすればいいの?」
ジ「なぜここに戻って来たのですか」
サ「借りてる家は狭いのです。あんな狭い所にはいられません」
サ「息抜きの為にここらへんで時間を過ごすのです」
サ「ここで私達家族12人が家を無くしました」
サ「神の他に神は無し」

p258
大通りに戻るとハレドがハーン・ユーニス防衛者を自称する男と一緒にいた。
以前会ったのを思い出した。手榴弾を見せびらかす変わった男だ。
アブドは足を引き摺っ歩いてる女性に気付いた。
数週間前この女性を尋ねた際に聞いた話だが、彼女は、人が家の中に住んでいるんだとブルドーザーの運転手に叫んで、どうにか破壊を止めさせる事が出来たのだった。
しかし二日前に再びブルドーザーがやってきた。
女「もう終わりです」
女性は感情的になってイスラエル軍が家を破壊するのは、パレスチナ人抵抗者にも原因があると遠回しに言った。
女「神よ、我らから不誠実な者を取り除きたまえ」
ハレド「ハッジャ、そんな事言わないで」
ハレド「これも神の意思だったんだ」
ハレド「俺達(兵士は)誰もあなたの家に近付こうとはしなかったよ」
ハレド「もし誰かが何かをあなたの家の近くに置いたとしても―」
―ハレドは地雷と言っている―
ハレド「それはあなたの家を破壊しようとする奴ら(を止める為の)物なんだ……」

p259
女「もう一階も二階も崩れちまったよ、でも神に感謝いたします」
そして怒りを他に向けた。
女「シャロンが家屋を壊したがってるんだ」
女「シャロンが人々を家から追い出したがってるんだ」
市場に通じる道へ歩いて戻ると、人々が集まって地雷でバラバラになったイスラエル軍用車の破片をいじり回していた。
病院の側にあいた穴が自家製爆弾の凄さを物語っていた。
そうこうするうちに、ハレドは変な目で見られていた。
男「パレスチナのテレビ番組で、奴らが侵攻してきた夜に、あんたが捕まったって言ってたぜ」

p260
イスラエルの装甲車がぐちゃぐちゃにしていった病院の敷地を歩いていた。
ハレドが教えてくれたのだが、2人の人間が殺され、翌日その葬儀をした後に、今度は8~9歳の少年が殺されたそうだ。
殺された少年は軍基地に投石しに行ってイスラエル兵に頭を撃たれたのだとハレドが説明する。
本当だ、トラックがその少年の葬儀時間を大音量で告げながらやって来た。
ハレド「殉教者の写真を撮りたいかい?」
ハレド「したいなら出来るよ」
ジ「遺体安置所に入って写真を?」
アブド「そう」
ジ「いや、ほんと、十分だよ」
だって、いったい何の権利があって僕はこの可愛そうな少年の遺体のすぐ側にいられるんだい?時間と歴史と白骨化するほど長い時間が経って初めてその死体から個人的なものが無くなり、そうすればやっとゆっくり面会できるんだろうけど。

p261タイトル「校庭」
午後三時半
授業は終わり!
生徒達は校門を通って道路に出る。この門は1956年11月12日、ラファフの男性達が殴られ、つまづきながら有刺鉄線と溝の向こう側へと跳んだ所だ。
アブドと僕も当時と同じように辿ってみる。
でも色々昔の事を調査する前に、まず今の事から。つまりここアル・アメーリア校で午後の初等クラスを担当している校長に会った方が良いと判断した。
でも校長は手が塞がっていた。
数分後、校長室での仕事が終わったようで、校長は僕達を中に招いてくれた。

p262
もちろん生徒にはあの日の事を教えていると言う。毎年その記念日には男達が校門でどのように殴られたのか説明しているそうだ。
校長のエスコートしで僕は本棟や教室の写真を撮った。
別の人が学校の庭師アブドゥラを紹介してくれた。
アブドゥラは1956年のあの日ここにいたが、当時まだ12歳だったそうだ。
ジ「でもなぜ校内に?召集年齢未満でしたよね」
ア「家にいるのが怖かったんです」
アブドゥラはそれ以上話したがらなかった。
自分よりもよく記憶している人が他にもいると言う。

p263
「多くの人が―民族が!―校庭で座ってました」
アブドゥラ・ハッサン・ハデル・アルモガイェ
“しかも人は増え続けました、どんどん。8時か8時半頃から11時まで……”
兵士「あっちに行け!」
兵士「あっちで座ってろ、あっちで座れ、座ってろ!」
アリ・ソライマン・シャアト:“有刺鉄線で囲われた場所にいると
“大きな口ひげの司令官が言いました”
「顔を下に向けろ!」

p264
「タタ・ロシュ!」
ザキ・ハッサン・エドワン
「‘タトゥ・ロシュ’ヘブライ語だったと思います」
「後に、三十年後ですが、‘頭を下げろ’という意味だと知りました」
モハメド・ハッサン・モハメド
「兵士が立って私達の頭上を撃ちながら‘タタ・オシュ’とか‘頭を下げろ’とか言ってました」
「‘タタ・オシュ’は、そう、ヘブライ語です」
「‘タタ:オシュ’(*)」
匿名4
(*)“頭を下げろ”はヘブライ語で“ロシュ・ルマタ”と言う。兵士はたぶん早口で何度も繰り返したので男達にはそう聞こえたのだろう。
モハメド・ジダン:“奴らは集まった人々の1~2メートル頭上を射撃していました……
“屋上からも射撃していて、ずっと撃ってて、途切れませんでした”
「私達は神に身を任せました」
「非武装の男達対大軍隊、私達に何が出来ましょうか?」

p265
「私達は座っていました」
モハメド・ユセフ・シェイカー・ムーサ
「全員が地べたに座っていました」
「そうです、非常に混み合って、とても混んでて」
「ぎゅうぎゅうで、すし詰め」
匿名4
「こうです……」
「皆、畑のスイカみたいに座ってました」
サレ・メヒ・エルディン・アルアルガン

p266
「校内にいた人の中には負傷している者もいて、血を流していました」
アブデル・ハディ・モハメド・ラフィ
「何か匂うと思いました。それは周りの人が流していた血の匂いだったのです……」
アイェシュ・アブデル・ハリク・ユーニス
「知ってる男がいました、同じ村出身の……」
「その男は頭から血を流し、私達はスナを傷口に詰めて流血を止めようとしました」
僕はモハメド・ユセフ・セイカー・ムーサに間抜けな質問をした。
ジ「トイレには行けたのですか?」
モハメド「いや。みんな漏らしてた」
モハメド「奴らが我々をトイレに行かせるわけないでしょ?」
アルサイェド・アブデル・ハミド・アブ・タハは孫をつかみ寄せて説明した。
皆、顔が前の人の背中に付く位に座ってたから、漏らすと前の人も濡れた。

p267
「皆、頭を下にして座っていて、私はおしっこに行けなかったから、地面に漏らしてしまった」
“皆のいる前で、漏らしたのです”
アーメド・ハッサン・エドワン
「こうやって座ってる時、皆漏らしていた」
モヒ・エルディン・イブラヒム・ラフィ
ジ「あなたはずっと父親と座っていたのですか?」
モヒ「うん、うん。頭が前の人の尻に付く感じ」
ジ「父親に話しかけましたか?」
モヒ「皆漏らしてたんだ、私が父と話したかなんて」
「立ちあがるのは誰も許されず、我々は何も与えられませんでした。全く何も、水も食べ物も」
「何にも、何にも、何にも」
「タバコを吸おうとすれば、止めろと怒鳴られました」
モハメド・ユセフ・シェイカー・ムーサ
「水も食べ物も無しで丸一日座らされていました」
ザキ・ハッサン・エドワン

p268
「人々が校内に集まる為に与えられた時間は2,3時間だけでした」
アイェシュ・アブデル・ハリク・ユーニス
「この時間を越えると人々は入ってこなくなりました……」
「他の(まだ大通りにいた)人々は全員、誰一人生き残れませんでした」

p269タイトル「捜索」
一方学校の外では何が起きていたのか?
僕達は学校の周りを回って当時の話をしてくれる老女達を捜した。
シャブーラの裏道で仮設出店を作ってお菓子を売ってるラエサ・サリム・ハッサン・カルーブに出会った。
確かに彼女は56年を憶えていた!当時は子供だったが記憶ははっきりしてると言う。
ラエサは孫に店を任せて僕達を仲の良い隣人の家に連れて行った。
そこにいた女性達は冗談を言って笑い、僕達を久しぶりに面白い人達だと言ったけど、僕達にとっても彼女達はとても楽しい人達だった。
堅苦しさや生真面目さは無し!実際あのお茶とコーヒーの大サービスショーは省略された。
なぜなら、そう、彼女達は僕達と一緒にここにいたからさ、お湯を沸かす台所じゃなくてね。

p270
ラエサの兄は、パレスチナ人兵士だったが、命令に従って学校に行った。
ラエサ「私も家を出ましたが、誰も止めませんでした。母は非常に高齢でしたし私は長女でしたから」
ラ「で、学校の壁の所まで行きました」
ラ「他にも3人ぐらい一緒にいました」
“男性は全員座っていて頭を下にしていました。ユダヤ人がその中を行ったり来たりしていました。
“動く者は皆殴られてました”
“頭上を射撃しながら言ってました、”
「タタ・ロシュ、イマー(*)!」
(*)イマー:馬鹿野郎
女の子達は兵士にどっか行けと言われましたが“私達は何度も行ったり来たりしました

p271
“女性達は初め家から出られませんでしたが、私が道を走ったり歩いたりしてるのを見て、だんだん勇気を持って外に出てきました”
ラエサ「私は怖がらなかった」
ラ「(今でも)怖くない、私は強いの」
ジ「通りには大勢女性がいたのですか?」
“そうね、多くの女性と沢山の子供がいました。旗を振り回してね。
“男性達を捜してこの地区まで走ってきたわ。泣いて叫びながら”
ラエサの出店から数軒先にデーバ・ジャミル・アルタリリがいた。彼女も当時の事をよく憶えている。
「夫と私の兄弟3人が拡声器の通告を聞いてから学校に行きました……」
「私達は兵士に声を張り上げて叫びました」
“彼らは私達を押し戻しながら言いました。
兵士「家に帰れ!家に帰れ!」
“(兵士が)私達を家に押し込んでドアを閉めました。
“(そのあとで)私達は再び外に出ました”

p272
海岸通りの向こう側に住んでいたオンム・アワド・アルナジェーリが語る―
オンム「隣人全員と私の娘達は皆外に出ました」
オ「私達の男が取られたんだから外に出たのです」
“家にいるべきですしょうか?一緒に死ぬつもりでした!」
“私達はファティマ・アルハティーブ通りのはずれに立っていて、銃撃されたら道に逃げてまた戻ってきました”
ジ「撃ってたのは頭の上ですか」
オンム「頭上です」
兵士がラファフに散開すると、女性と子供達は急いで家に戻ったとオンムは言う。
兵士は各家に入り二つの物を捜した。一つは指示した集合地に行かなかった男性、もう一つは武器。
「ドアを開けると入ってきました」
「5人来ました」
ジャミラ・イッサ・ソライマン・アブ・ジーター
“5人とも背が高く屈強でした。

p273
“家具、マットレス、毛布、鶏かごも探っていました。
“私は嘘は言いません。家から何も盗られませんでした。
「全部探ってました」
「全て」
オンム・アワド・アルナジェーリ
“奴らは鶏一匹残しませんでした。何もです。全て持って行かれたのです”
「7人の息子全員が連れ出されて、向かいの家の壁に立たされました」
タア・ハリル・アウトマン
“家を出て、大声でわめきながら付いていきました”
兵士「お前が泣いてるのは分かった」
兵士「息子を連れて行け」
兵士「ドアを閉めて出てくるな」

p274
ファティマ・アルハティーブ:“ひどい場面を覚えています。一人の兵士が怒鳴ってました
兵士「そいつを撃ち殺せ!撃ち殺せ!」
“妹の息子の事を言ってるのです。息子は15歳でした。
兵士「イヤや、これは若い」
“家から出て行く時に兵士が一人来て
「誰も出てはいけない」
「皆、家にいるように」
“この男は人間だと思いました。
“捜索が終わった家には終了の印が付けられました。
“そのあとで、怪我した男性が這って歩いてきて、家のドアを叩きました……
“皆一部屋にかたまってました。怖かったのです、特に、この隣人を迎えてからは……
“この男性はマグリブ(*)の後まで私の家にいました……
(*)マグリブ:夕方の礼拝
“男の家族が引き取りに来ました……でも男は病院に着いた時に死んでしまいました。

p275
ガニム・マハムード・シャアトの話が途中までだった。いとこが目の前で殺されて、自分は家に戻ってベッドに横たわり、兵士が来るのを待っていた男だ。
そして今兵士がやってきた。
兵士「立て!」
ガニム「無理だ。昨日病院に行ったばかりなんだ」
ガニムは司令官に自分は病気だと伝えUNRWAカードを示した。
“私は部屋から連れ出されました
“兵士に壁に立てと言われました
“そして両手を挙げろと。
兵士「この男は病人だ。撃つな」
“しばらく歩いて……
“兵士が重い棍棒で私を殴ろうとし……
“私は転んで、背中を打たれました
“先ほどの司令官が、私に触れるなと兵士に言いました。
“司令官に連れられて行くと、そこには大勢の人がいて……
顔を地面に向けていました。そこは空き地で……兵士に囲まれていました。
“(捕まっていた人)全員は老人でした。中では私が一番若かったのです。21歳でしたから。
“1時間か1時間半そこにいました。

p276
“キャンプ内の捜索を終えるとあの同じ司令官が戻って来て……私達に質問を始めた
司令官「名前は?」
司令官「どこに住んでいる?」
“老人達は解放され私達3人が残った”
ガニムは他に二箇所あった集合地の一つに連れて行かれ、更に調べられた。その集合地は政府学校から離れた所にあった。
キャンプで射殺された男性の話をアブドと僕は何度も耳にした。
例えば、ファティマ・アルハティーブの話“隣人が、55歳だったが、ドアの外に連れ出され殺された”
僕達は何度も何度もある一つの話を聞かされた。モハメド・タビトという教師が家に隠れていたがイスラエル兵に見つかって殺されたというものだ。モハメドは女性の服を着ていたと言う者もいる。
しかしモハメドの家族は移住しており、この話を十分確認できなかった。
学校に遅れて来た人々がまとめて殺されたという話も聞いた。しかし目撃者が欲しい。
ある男性が―当時は少年―数家族の人と隣人がOブロックから出て行く後ろに付いて行き、その人々が壁に沿って並ばされて銃殺されるのを遠くから見ていたそうである。
他の人からもこの話を何回か聞いて、確かに一部は間違いなく確認できた。
この男性が見ていた人々は本当に全員その日に殺されていた。
しかしそれでも、アブドは少し懐疑的だった。この男性は本当に殺人を見ていたのか……
もちろんアブドの疑念は否定と同じ意味を持つんだ。

p277
信用できる物と信用できない物を誰が選り分けるのか?
腰掛けて部屋でコーヒーを飲んでるのは僕とアブドだ。
僕達が判断して
僕達が編集して
僕達が決める。

UNRWAの記録もイスラエル側の記録も無い状況で―あったとしても信頼できるかどうかは別問題だけど―僕達の務めは歴史というコップに説得力溢れ且つ信用に足る証言を出来るだけ注ぎ込むことだ。
注いでる途中で真実が零れ落ちてしまったら御免ね。
ところがある日、その頃には集団殺人の話から距離を置いていたのだが、トルコ人奴隷の末裔っぽい風貌をしたパレスチナ人4人に出くわした。その時彼らは砂と小石で遊んでいて、
通り過ぎようとした際にその一人が話しかけてきた。1956年のあの日、7人の男性が射殺されるのを見たと言うのだ。
僕がメモ帳を取り出し、その話をもう一度してくれと頼むと、男はためらった。
男「ユダヤ人には不都合な話だし、私はトラブルに巻き込まれたくない」
男の名前を決して本には書かないと約束すると、しぶしぶ話し始めた。
“家の中に入り、捜索してから……祖父に言った、
兵士「お前、若いな。なぜ学校に行かなかった?」
兵士「身分証は?」
“その兵士は身分証を見ると、他の兵士に(祖父を)学校へ連れて行き、身分証の年齢が正しいかどうか調べるよう命令した。
“兄と私は気付かれぬように兵士と祖父の後を追いました。
“公衆衛生局の近くで、7人の男性が両手を挙げたまま壁に向って立たされていました。
“祖父は先にそこを通り過ぎました。

p278
“でも私達は止まりました。
“老いた女性が通りにいて、学校に行ってしまった息子を捜していました。
“老女も立ち止まりました。
“老女は地面に倒れ、四つんばいになり……”
老女「全員殺された」
老女「全員殺された」
「私達は家に戻り」
「この話を家族にしました」
「30分後祖父が兵士と共に帰ってきました。(召集)年齢を越えているのが確かめられたからです」
目撃者の話を信用するか、しないかの責任は僕とアブドが負う。
この場合、僕達二人とも直感的にこの男の話を信じた。

p279
彼らはとても親切で近くに住んでいる女性の家を教えてくれた。その女性は目の前で夫が射殺されたそうだ。
夫のサレムと一緒に暮らしていたその場所で、ナスラ・フェルフェルは僕達のインタビューに答えた。
夫は家に戻ってきたところを殺されましたが、それが運命だったのです。
“夫に言いました
ナスラ「皆走って学校に向ってるわ、あなたも行かなくては」
“夫が外に出てみると、もう誰もいませんでした。男性は全員学校に行ってしまった後だったのです……
“なので夫は家に戻る事にしました……
“他にも遅れて出て行った隣人がいましたが、その隣人は銃底で殴られながら学校に連れて行かれました。
“突然兵士が家に押し入ってきました。

p280
“兵士が捜索している間、
“私達は怖くて一箇所にかたまっていました。
“夫は外に引き摺りだされました。
“夫を追った私の後ろから(息子達が)付いて来ました。子供達は怖がって……泣き叫んでいました……
ナスラ「夫はまず腹の左側を撃たれ、次に頭を撃たれました」
ナスラ「隣家の玄関側で」
アブド「見たのですか、ハッジャ?」

p281
“この眼で見ました。
“今度は私達を撃ちました。
“私は転んでしまい、四つんばいのまま這って家に戻りました。
“何度も家を出て遺体の所へ行こうとしたのですが……道角に兵士が一日中立っていました。
“隣人も度々私に声を掛けてくれました”
隣人「出ちゃだめよ!家から出たら撃たれるわ!」
ナスラ「その通りなんです。兵士は至る所で発砲してましたから」
ナスラ「夫の死体は翌朝まで撃たれた場所に放置されたままでした」

p282タイトル「100シュケル」
1956年の事件を夢中で掘り起こしている間にも、日々の出来事が押し寄せて、僕達が出会った物を覆い隠し、当のテーマに光を当てるのが益々困難になる。
例えば前話で出会った80か82歳のタア・ハリル・アウトマン。数日前、家にいたのに住宅が破壊されて彼女は足を骨折した。
瓦礫の中に一時間も埋まっていたのだ。
「‘神の他に神は無し’と言い続けていました」
僕とアブドは道向かいにある吸水場を先に調べていた。ここはイスラエル軍が標的としたようでかなり破壊されていた。
別の吸水場は同日夜に完全に粉砕されていた。
警告は無し。
タアはトタン屋根がベッドに落ちてきて目が覚めた。
タア「家全体が私の上に崩れてきました……」

p283
“大声を出しました
“戦車が撤退してしまうと隣人や息子達が来てくれました”
「おばあちゃんが死んだ!」
「おばあちゃんが死んだ!」
タア「こんな事許されるのでしょうか?」
そして今は?
タア「今は息子と一緒に暮らしています」
タアの息子はまだ少年だった1956年のあの時、壁に立たされた経験を持つが、今はこの近くのタル・エルサルタン地区に家を借りて住んでいる。Oブロックにあった自宅は数ヶ月前破壊されてしまったのだ。
息子「UNRWAは100ドルしかくれませんでした」
息子「赤十字はテントを一つ、それだけです」
息子「マットレス三枚とござ一枚も貰いましたが」
息子「他に助けを求める方法は無いのでしょうか」

p284
僕は非常に可哀相に重い、家を二つも失ったこの人達に何かしてあげたかったのだが、アラブの礼儀作法に反するのもいやだった。
ジ「お金を上げたいんだけど、あまり良いアイデアじゃないかな?」
アブド「良いアイデアじゃないね」
アブドにもう一度聞いたが、彼の考えは変わらなかった。
何も上げてはいけないんだ。
そろそろ外に出る潮時だ。
タアの義娘が付いて来て、破壊されて瓦礫と化した母の家を教えてくれた。
娘「母はここで寝ていました」
娘「頭をそこの鏡の方に向けて」
さっと写真を撮って僕達はすぐ立ち去った。

p285
向こう側に中間地帯を挟んでユダヤ人入植地があるのだが、この道沿いは何度も爆撃や銃撃を受けてボロボロになっている。
人々が家を補修しまだ住もうとしている事が不思議なくらいだ。
海岸通りに向って左折すると、さっきよりもっと不幸な人に出会った。
僕は女性にお金を手渡した。(I put money in the hand of the woman, Abed or not)
他の人が得た事も無いような金額が彼女の手に。
少なくとも一人はハッピーだ。

p286タイトル「虎穴に入らずんば」
アシュラフは携帯と地元史家オウダ・アイェシュの本から抽出した名前リストをアブドから取り上げた。
アシュラフも1956年プロジェクトに加わるんだ!
アシュラフ「あなたの家族が何処にいるのか知りたいんです」
アシュラフ「クーポンをお渡ししたいのでね」
クーポン?
食料雑貨類をもっと貰えるUNRWAのチケットの事らしい。
もちろん僕達はそんなの持ってない。でもアシュラフは異議を却下した。
アシュラフ「虎穴に入らずんば、虎子を得ずだろ!」
僕とアブドは上手く出来なかったのに、アシュラフは効率よく老人達と会い、
街頭の下でぶらぶらしてる子供達と話しをし、
アシュラフ「この人達を捜してるんだが」
床屋に入ったかと思うとニコニコして出てきた。
アシュラフ「56年の話を一つ掴んだぜ」

p287
アシュラフは時々夕方に僕達のインタビューに同伴し、老人達の話を熱心に聞いていた。アシュラフにも初めて聞く話ばかりだった。
アシュラフはJブロックでは有名人で人気が有り、かなり情報通のようだ。
アシュラフ「おめでとう!」
アシュラフ「君の家も破壊されたろ」
抵抗軍はアシュラフの許可を得ようとした。アシュラフが放棄した家の中に地雷を埋めてイスラエル軍に対抗したかったのだ。
アシュラフは笑って断り、他にも放棄された家は近くにあったろうと言った。
一日のインタビューを終えると、海岸通りのレストランによく入った。
照り焼きチキンをオレンジジュースで流し込みながら、アメリカ政府が間も無く攻撃を開始するというニュースを見ていた。
ある晩レストランを出ると境界線付近で銃撃が始まった。
アシュラフの家の方がかなり攻撃されてるようだった。

p288
アシュラフと一緒に銃撃が終わるのを待つ。
死傷者が出た場合に備えて救急車が止まっている。
その時、曳光弾が頭上に飛来し僕達は逃げ出した。
もう大丈夫。今晩は僕たちの所で寝たらいいとアシュラフに言う。
アシュラフ「いや家に帰りたい」
Jブロックには妻と子供が、両親と兄弟姉妹もいるのだ。
銃撃がやっと終わり、僕とアブドは裏通りを通ってアシュラフを家まで送る事にした。
男「気を付けて行けよ」
男「お前達を病院に運びたくないからな」
僕達は余りしゃべらなかったが、アシュラフは付き添ってくれた事に感謝してるようだった。

p289
何事も無くアシュラフを送り届ける事が出来た。

p290タイトル「全部吹き飛ばせ」
外国人がすぐ後ろにいるのに、この運転手は自分を抑えられなかった。
タクシー「二つ三つの作戦が必要だ!」
タクシー「バーン!」
タクシー「バーン!」
タクシー「全部吹き飛ばしちまえ、それで戦争になるって言うなら、かかってこいってんだ」
タクシー「日々俺達は殺されて家を破壊されてんのに、こっちは作戦無しかい!」
タクシー「俺達にも軍事作戦が必要だ!」
作戦。パレスチナ人に言わせればイスラエルに対する攻撃はなんでも作戦だ。もちろん自爆攻撃も。
男「そんな事言うな。刑務所に入れられるぞ」
タクシー「そんなの知るか、怖くないぜ!」
タクシー「奴らは昨日、妊婦を殺したくせに、すまなかったって言っただけだ!」
タクシー「謝罪を表明できるのは自分達だけだでも思ってんのか?」
タクシー「俺達もやるべき事やって口だけ謝ろうぜ!」

p291
そして三日後、ハイファで自爆攻撃が有り、イスラエル人17名が殺された。
この話は携帯ですぐに広まった。
あれ、聞いたかい?
その翌日、イスラエルはガザ地区北部にあるジャバリア難民キャンプを攻撃し11人殺した。
その内8人は一箇所で殺された、
消防士が火を消そうとしていた場所で。
アラブのテレビ番組で何度も繰り返しこの映像が流れた。
消防士と野次馬がいる所をイスラエル軍が爆撃したのだ。
全員非戦闘員だ。

p292タイトル「闇に浮かぶ影 第一部」
救急車が駆け抜け、ロケット弾がJブロックに次々と撃ち込まれる音がした。
アブドと僕は何が起きたのか調べようと海岸通に向かい、そこにいた少年に状況を尋ねた。
少年「さっき女性が3人、そこで負傷したんだ」
少年「あ、でもそっちの歩道は歩かないで」
アブド「分かった。道を教えてくれ」
少年の誘導について行くと、向こうの角に隠れるようにしている人影が見えた。
人「そこで止まるな。こっちに走って来い。道の先に戦車がいるんだ」
言われた通りにした。
道路の先がキャンプの外れで、そこから向こうは真っ暗闇。
戦車がいてもこちらからは見つけられない。

p293
アブド「何があった?」
人「ジャベール家の3人が負傷した。うち一人は少女だ」
アブド「原因は?」
人「あの塔からのロケット弾」
IDFのタル・ゾロブ基地の塔だ。
人「それと老人が一人家に戻ろうとして爆撃された」
人「どうにか逃げ切ったけど」
突然!:
曳光弾!
そして―
ドーン!
ロケットが道路に着弾した。

p294
今ここにいるうちの一人が言うには、さっきロケット弾が着弾した所から数メートル先の雑貨屋の階上に住んでいるという。
僕は矢継ぎ早に聞いた。
ジ「あそこには誰がいるの?」
ジ「何人?」
ジ「家族全員?」
男「父と母と兄弟と姉妹だ」
男「あそこまで連れてってくれるかい?」
翌日アブドと僕は昨晩負傷した女性の一人に会おうと車でヨーロッパ・ガザ病院に向った。この病院はハーン・ユーニスへ向かう道沿いにある。
女性は脚を吹き飛ばされたと既に聞いていた。
あの女性を見舞うのは余り良い考えじゃないと守衛が言う。ちょうど今、女性の家族に切られた脚を手渡してきたそうだ。
守衛「重体だから」
守衛「時々正気を失うし」
守衛「まだ足を失った事に慣れてないから」
そして未婚だそうだ。
僕達に理解できるだろうか?
これが彼女の将来にどんな影響を及ぼすか、僕達に想像できるだろうか?

p295
同じ時に負傷した他の女性はラファフのエルナッジア病院のベッド横になっていた。
ヨーロッパ・ガザ病院に運ばれた女性の姉ファティアはインタビューに応じてくれた。
隣のベッドにいる姪のローラ7歳は薬で眠らされていた。
服は血に染まっていた。
医者が言うには、血が止まらないと脚の大怪我を手術できないそうだ。
ファティアによると、あの夜は市場に行った帰りだったそうだ。
ファティア「家を出る前にも少し……銃撃はあったんです」
ファティア「でも静かになったので」
彼女達の帰り道、あと少しで家に着くその時、銃火に巻き込まれたのだ。
“何かが体を貫通するのを感じました……
“私達は立ち止まり一番近くの家に走りました。
“私が先頭にいて、そして爆撃が始まりました。
“数え切れないほどの爆弾です!
姪「助けておばさん!」
姪「助けて!」

p296
“振り返ると
“姪は血だらけになっていて
“妹は地面に倒れていました。
妹「脚をやられたわ!」
“妹との距離は5、6メートルだったのですが、近寄れませんでした。
“激しい爆撃だったのです。
“妹を助けに来てくれた人々も爆撃されました”
ようやく勇気ある隣人が妹を家に引き摺り入れ、まだ攻撃が続いている中で、3人は医療班の助けによって、被弾しないよう壁越しに避難することが出来た。
聞かなくてはならない質問があった。なぜ危険なエリアである境界線付近に住むのですか?
彼女が言うにはJブロックにあった家は二ヶ月前に破壊されてしまい、
次にタル・エルサルタン近隣にアパートを借りたがイスラエル軍はそこも破壊し、さらに車と隣家も破壊した。
破壊のせいで多くの人がホームレスになり、家を貸してくれる所が何処にも無くJブロックに戻らざるを得なかったそうだ。
姉「家賃は払ってしまったのに」
姉「私達はいったい何処に行けばいいんでしょう?」

p297タイトル「いつもじゃない」
ある晩、僕達はアシュラフの友人ファアドの家でのんびりしていた。フアドの家はJブロックの最も危険な地域、境界線と接するどん底のような所にある。
僕の56年プロジェクトや人間が持つ記憶の脆さについて話していた。
フアド「昨日朝食に何を食べたかさえ思い出せないよ」
うん、そうだけど、興奮しながら僕は最新の調査について話した。
ジ「でも昨日の朝殴られてたら、憶えてるだろ」
一般的に言って、そんな事は毎日起きてるわけじゃないし、
だから殴打されればはっきり心に残るはずだろ。
そんなわけで、僕が話を聞いた老人の大半は
―あんな経験さえしなければ何も憶えていないような人でさえ
校門で殴打された事を憶えているんだ
僕の説明は
銃弾が
集中砲火的に
飛び交う音にかき消された!
イスラエル軍が
銃撃して
この建物が揺れている。
そして衝撃音が
上の階から響いた。
一階にいるから割と安全だとは言え、銃撃が終わっても僕は緊張していた。
銃撃は僕にとって日常じゃないからね。
でも
友人は
会話を続けていた。
何も起こらなかった
というよりむしろ
いつもの事なので
口にするまでも無いって感じだった。

p298タイトル「選別」
この話にはどうしても曖昧さが付きまとう。
棍棒がいきなり頭や体に振り下ろされ事や学校に人々が集まる間も銃撃が止まなかった事は、誰でも憶えていられるかもしれないが、その後のゆっくりと進んだ8~10時間をちゃんと憶えている人はいるだろうか。ギアを低速に入れたようなゆっくりと進む時間の中で、辛くはあったが比較的システマティックに行われた選別審査を憶えている人はいるだろうか。

p299
約50年が経って僕達がインタビューした時、この長時間の出来事を思い出すのに苦労する人が多かった。
それに加え、見たり経験したりした事が人それぞれバラバラだったというのもある。

p300タイトル「将校か将校達」
しかしそれでもインタビューしてみると、初めの数時間には話に共通する部分が多くある。まずは将校の到着したところから始めよう。
「12時過ぎかな、まだ皆顔を下に向けていたころ……」
マハムード・サルマン・キュタ
「一台のジープが入って来た」
ザキ・ハッサン・エドワン
「到着したジープには兵士が二人乗っていた。背が高いのと低いのと」
アワド・モハメド・アーメド
モハメド・ジダン:“午後になると車が二台入ってきた。車には政府高官らしき人々がいた。

p301
「……国際機関の人間が来た。たぶんイスラエル人だったと思うが、何処の国から来たのか私には分からなかった」
モハメド・ハッサン・モハメド
「ユダヤ人高官なのかイギリス人高官なのか分からないが……」
イブラヒム・セイカー
「……国連の高官だったと思う」
モハメド・ジュマエルグール
「外国人、たぶんイギリス人……その横にアラビア語の分かる通訳者がいた」
匿名1
「あの人達が誰なのか私達には分からなかったが、イギリス人とフランス人だと聞いたよ」
アイェシュ・アブデルハリク・ユーニス
将校が一人にしろ複数だったにしろ、そのおかげで状況は良くなったと皆言う。
モハメド・ジダン:“将校はすぐに手で合図したからね……射撃を止めろって。
“将校は人々に直接話しかけて、顔を上げるよう言ったよ”

p302
‘顔を上げて!’
ザキ・ハッサン・エドワン
‘顔を上げて!’
アワド・モハメド・アーメド
‘全員、顔を上げて!’
「ほっとしました」
イブラヒム・セイカー
この謎の将校は非常に印象的な人物だったと言う人もいる。
「午後になってフランス人か国際機関の人らしき女性がやってきました」
アーメド・ハッサン・エドワン
“この状況、私達が全員顔を下に向けているのにショックを受けてました”
女性「なぜこんな事?」
「……国際機関の車が来ました」
サレ・メヒ・エルディン・アルアルガン
“将校の一人が怒って”
将校「なんだこれは!」

p303
“将校は大声で人々に言いました
将校「頭を上げて!」
“真ん中に立って射撃を止めさせました”
タイトル「鳩の伝説」
「将校はユダヤ人ではありませんでした。たぶんイギリス人か他の外国人……」
アブデルワハブ・マハムード・アブデルワハブ・アルアスマー
“鳩が飛んできて将校の肩に止まりました”
「私達のすぐ側を鳩が三匹飛び回ってました……」
サレ・メヒ・エルディン・アルアルガン
“私は言いました。
サレ「我らにやって来た慈悲深き天使だ」
“横に座ってた男が言いました”
男「そんな天使何処にいる?」
男「ここに慈悲なんか無いだろ」

p304タイトル「投降せよ」
イスラエル軍がパレスチナ人戦士と思しき人々をピックアップし始めた。
「私の記憶では、名前リストに載ってる人を呼び出してました」
アーメド・ハッサン・エドワン
「イスラエル軍人が名前を読み上げてました……どうして名前を知っているのか、私達には分かりませんでしたが」
「呼ばれた人は教室に連れて行かれました」
モハメド・ユセフ・シェイカー・ムーサ
「幾つかのグループがそれぞれ校内の別の場所に連れて行かれました」
「イスラエル兵は厳しい取調べをして、仲間の名前を聞き出すと、今度はその男を呼び出しました」
アブドゥラ・ハッサン・ハデル・アルモガイェ
モハメド・ジダン:誰かが部屋に入ると、中から銃撃音が聞こえました。部屋に入ったら殺されるかもしれない、という恐怖心を私達に与えるためです”
又、イスラエル軍はパレスチナ兵に向って自主的に投降するよう呼びかけた。
パレスチナ兵は前に出てくるよう、拡声器で呼びかけてました。
あるサイド・アブデル・ハミド・アブ・タハ
「‘戦闘員は、こちらに来い、従えば危害は加えない’」
アイェシュ・アブデル・ハリク・ユニス

p305
「‘怖がる事は無い’」
「‘もし出てこないなら殺すぞ」
「我々にはガザの全リストがある’」
“私は立ち上がった
モハメド・イスマエル・アルスバヒ
“少しずつ、少しずつ。
“二人、そして、三人、そして四人。
“お互いを促しながら……
“闘士の中には……他の仲間を指差すのもいた”
「闘士が一人か二人立ち上がって、仲間を指差したんだ」
アーメド・ハッサン・エドワン
「イスラエル軍がそうさせたんだが……」
「イスラエル軍は意志の弱い奴―内報者だと言う気は無いが―に命じて仲間を、つまりパレスチナ闘士を選び出させた」
アブデル・ハディ・モハメド・ラフィ
p306
「イスラエル軍は二人のパレスチナ闘士を立たせた。この二人は内報者だったので、イスラエル兵は闘士仲間を指し示すよう命じた」
「なので指名されると思った男は顔を隠そうとした」
アブドゥルマリク・モハメド・クッラブ
「……で、顔を隠そうとした人達が連れ出された」
匿名1
「自首しない闘士もいたので、最後にはイスラエル兵が来て選び出してました」
モハメド・ユセフ・シェイカー・ムーサ
兵士「お前、立て!」
兵士「お前、立て!」
兵士「お前、立て!」
“兵士じゃない人も選ばれてました”
「‘おい、お前、来い、こっちだ!’」
「連れ出された男は……射殺されました」
モハメド・ジュマエルグール
“射殺がありました。確かです。皆顔を伏せがちにしていました。撃ち殺されないように”

p307
「こっちに入ってきて、一人、二人、三人、と選んで‘立て!’‘立て!’と」
モヒ・エルディン・イブラヒム・ラフィ
“選ばれた人は壁の裏側に連れて行かれました。西の壁です。
“で、射殺されました”
他の人もこの話をしてくれたのだが、校庭での射殺に関しては信用に足る目撃証言は得られなかった。
イスラエル軍はパレスチナ人闘士と思しき人達を別の場所に集めて、その中から闘士を見つけ出そうとしていたのだが、その人達もパレスチナ人闘士グループと共に一箇所に集められた。
タイトル「コーヒー店の店主」
何度か聞いた一つの話がある。これは記憶という物が人によって如何に異なるかを示しているのだが、ラファフに住んでいてイスラエルのスパイらしき男がコーヒー店店主のイダイヒーに恨みを抱いていたという話だ。
「イダイヒーは私達と一緒に座っていたのだが、あのスパイが来て‘イダイヒー、出て来い’と言った」
イスマエル・イブラヒム・ユセフ
“で、イダイヒーは出て行った。私達は座っていたから、誰も彼が殺される瞬間を見てないが、射撃音は聞こえた。何処かは分からないけど。
“私達は顔を上げようとしなかったから”

p308
「突然ザキ・イダイヒーを呼ぶ声がしました。ザキ・イダイヒーは出て行ってそれっきり戻ってきませんでした」
アイェシュ・アブデルハリク・ユニス
「あのスパイがイダイヒーに呼びかけ、見つけ出して、射殺したのです……イダイヒーは校舎の裏に連れて行かれ射殺されました」
アーメド・ハッサン・エドワン
「イスラエル兵は校内のスピーカーを使ってイダイヒーを呼びました。イダイヒーは校舎の裏に連れて行かれた後、銃撃音がしました」
モハメド・イスマエル・アルスバヒ
モハメド・ジダン:“イスラエル軍はスピーカーを使ってイダイヒーとその息子を呼びました。もちろん息子はそこにいませんでしたが……
“翌日、イダイヒーは校舎内か道端で殺されたと聞きました”
「(イダイヒーは)道端で殺されてました……私はイダイヒーが体から血を流しているのを目撃しました」
モハメド・ハシム・イブラヒム・アブ・タリブ
タイトル「縦列」
校庭でパレスチナ兵を見つけ出したのにも飽き足らず、イスラエル軍は次に地元の有力者を協力させようとした。
「イスラエル軍は各村の村長に出てきてもらい、自分の村の兵士を教えるよう言ってました」
モハメド・ユセフ・シェイカー・ムーサ
“村長は一箇所に集められて一列に並ばされました”

p309
ほとんどの村長は呼びかけなかったし、呼びかけても……それは残りの人々を救おうとしての行為でした。
“たぶんこんな感じで、
「兵士の人はこちらに出て来て下さい」
“村長はパレスチナ兵士を指差したり、名前を挙げたりしませんでした”
「(イスラエル軍は)人々に一列に並ぶよう命じ、村長の前を歩かせました」
匿名1
“村長は我々を見ていましたが、決して指名しませんでした……
“私の番が終わって戻ろうとした時、闘士グループの場所を警備していた兵士が言いました、
兵士「お前、こっちに来い!」
“すると村長全員が大声で……
村長「その人は写真屋で皆の為に身分証を作ってる人だ!」
“で、私は元の場所に戻れました”
アワダラ・アーメド・アワダラはあの時村長として前列に居たのだが、こう強調する。“我々は一人の兵士も明らかにしませんでした。
“お分かりいただけますね”

p310
ジープに内報者が乗っていて、その前を歩かされたという者も多くいる。
「内報者は毛布を被ってました……」
アブドルマリク・モハメド・クッラブ
“4人ずつのグループになってジープの前に……
“ジープの中の内報者がクラクションを鳴らすと―
“ブー
“そいつを連れて行けという合図です
“男はイスラエル兵に校舎の裏まで連れて行かれ、射殺されました”
「ユダヤ人と一緒にパレスチナ人内報者がいて、内報者は車内で顔を隠していました」
「ジープです。ユダヤ人のジープ」
アルサイェド・アブデル・ハミド・アブ・タハ
“一列に並んでジープの前を通るよう命じて……(人々を)選び分けてました。
“指示が出されます―
“こいつだ、と。
“―兵士とばれた男は連れて行かれました”

p311
「ジープの前に少しの間立たされ……それから歩かされました」
アブドゥラ・ハッサン・ハデル・アルモガイェ
男達はテーブルの所まで連れて行かれ、個別に質問を受けた。
「多くの兵士がパレスチナ人を並ばせていました」
質問面接する数が多すぎてとても時間がかかってました。
「そして好きなようにパレスチナ人を連れ出してました」
アイェシュ・アブデルハリク・ユーニス
“私を立たせて質問しました
兵士「仕事は何だ?」
アイェシュ「教師です」
“それで終わりでした……”
「私の順番が来た時は」
匿名2
兵士「何処に住んでいる?仕事は何をしている?」
匿名2「警官です」
“こういった質問が多く、私は問題なく面接を終えました”
「一つの質問、一つの返答」
アワド・モハメド・アーメド
“で、行ってよし”

p312
「軍を退役してまだ10日でした……でも市民(身分証)カードは持ってました」
アブドゥラ・ハッサン・ハデル・アルモガイェ
“軍隊仲間で心がとてもとても弱い奴が一人いました。そいつは朝、イスラエル軍に連れて行かれ、情報から仲間の名前まで全て自白してしまったのです。選別面接の時はイスラエル側テーブルの所に立ってましたよ。
“私の番が来て、身分証を見せるとそのまま行かせてくれました。
“五分後に……兵士が私の襟をつかんで……”
兵士「お前は兵士だな!お前の仲間が言ってたぞ」
アブ「私は兵士じゃない!」
兵士「お前の同僚が言ってるんだ。少佐の運転手をしてたろ!」
タイトル「スピードアップ」
途中でイスラエル軍は気付いたようだった。このままでは夜になっても選別が終わらない。
「4時頃になると、30人ぐらいまとめて立たせるようになりました」
イスマエル・アブドゥラ・ファラハト

p313
モハメド・ジダン:パレスチナ人は沢山いるのに、調査室は少ない。日没が近くなると、面接調査は急ぎ足になっていった……
“時間が有りません。10人ぐらいまとめてやってましたが、それでも時間が無かった”
「私達が兵士なのかどうか、気にしてませんでした」
モサ・アブドゥラ・アルハッジ・モハメド
「ハンサムな男や体格の良い男が選ばれてました」
“机に近付くと私達は外見で判断されました”
ジ「何も質問してこなかったのですか」
モサ「何もしてこない」
モサ「ただ私達を見て、選び出すだけ」
兵士「お前はあっちに行け!」
兵士「お前はあっちに行け!」
兵士「あそこに座ってろ!」
モハメド・ジダン:“私の順番は回ってきませんでした……
“ただ座って眺めてました”

p314タイトル「バス」
選別が終わり、闘士の疑いがある者は校門の外に連れて行かれたが、そこには何台ものバスが待機していた。
アリ・ソライマン・シャアト:“5人毎のグループで歩かされました”
「私達は歩いてる時も殴られました」
モサ・アーメド・アルキーシ
“バスに入れられ、”
モサ「各シートに3人ずつ」
モサ「こうやって座ってました」
モサ「頭を上げた者は殴られてました」

p315
ガニム・マハムード・シャアト:“シートとシートの間では折り重なるように座らされました……
兵士はよじ登って我々を殴りました。
「左の窓越しに私を殴ってくる兵士もいました……」
モサ・アブドゥラ・アルハッジ・モハメド
「バスに乗りたがらない男がいて、兵士が前に進めと言っても聞きませんでした」
アブドゥラ・ハッサン・ハデル・アルモガイェ
“私がバスの中にいると、銃撃がして、顔を上げました。
“その男は死んでいて、サボテン畑の奥へと引き摺られて行きました”

p316
政府学校と他地域から集められた闘士容疑者は一時的にガザ市とその近隣に隔離されたのち、北イスラエルにあるアトリット刑務所移送された。
その刑務所には何千人もの捕虜がいて本国送還を待ち望んでいた。
タイトル「解放」
「今や夕方になり……」
「外から女性たちの騒ぐ声が聞こえていた」
「あの時、残された女性達が全員学校に来ていた」
アワド・モハメド・アーメド
「女性のかん高い声が外から聞こえました」
女性「ああ殺されてしまった!」
女性「ああ殺されてしまった!」
学校と私達の間には家の壁があるだけです。私達は全てを聞きたかったのです。
ホッソン・サラマ・バドワン
“私は家から外に出ました。
“女性が何人も何人も集まって夫、息子、兄弟の運命を知ろうと待機していました”

p317
子供と女性は皆ここにいて、男達を待ちマルタマ(*)をしていました。
(*)マルタマ:悲しみの表現
「女性の叫び声を聞いて私達は(徐々に)ざわつきました」
アブドゥルマリク・モハメド・クッラブ
“イスラエル兵が女性を襲ってると思ったのです。
“ざわついたのでイスラエル兵はこっちの頭上を撃ち出しました”
「我々の純血が襲われずに済んだのはせめてもの救いです」
モヒ・エルディン・イブラヒム・ラフィ
ジ「我々の何?」
アブド「女性という意味」
モヒ「死ぬ事やお金は問題じゃ有りません」
モヒ「純血が大事なのです」

p318
「ジープが来ました。中に4人いて全員背が高かった」
アワド・モハメド・アーメド
兵「よし……自宅に戻れ」
兵「だが静かに帰れ」
兵「何か変な気を起こしたら、射殺するぞ!」
「高級将校が来て私達の前に立ちました」
イスマエル・アブドゥラ・ファラハト
将校「5時になったら全員帰ってよし!」
「日が落ちて1時間半か2時間経つと―」
匿名4
将校「家に帰れ!」
将校「帰ってよし!」
モハメド・ジダン:ラウドスピーカーで告げていました、
「では、自宅に戻ってよし」
「3~5分以内に学校から出るように」
「残ってる者を見つけたら撃ち殺す!」
“手で(将校は)行けと合図しました。

p319
“その後すぐ至る所から威嚇射撃が始まりました。
“屋上から、
“兵士が校内から、
“校庭にいた兵士が
「私達を解放して、校舎から激しく撃ち始めました―」
「ダダダ!」
アーメド・ハリル・アルバワブ

p320
「校門を通ろうとする者は一人もいませんでした……」
匿名4
“校門から海岸通りに出るのが怖かったのです。とても怖かったのです。
“(大通りで)人々が大勢殺されたのを見て来た訳ですから……”
「皆怖がって校門を通ろうとしませんでした」
モハメド・ユセフ・シェイカー・ユセフ
“こう思ったのです……学校に入って来た時と同じ目に合うと。
“私は自分の店がある方の壁を飛び越えました。
“そして昔学校に通ってた頃に使っていた道を抜けて自宅に戻りました”

p321
モハメド・ジダン“学校の西端は壁じゃなくて金網(のフェンス)でした。
“先頭の人達があっという間にフェンスを倒しました”
「北側は壁で……」
アブデル・ハディ・モハメド・ラフィ
「皆、壁を飛び越えようとしていました」
アルサイェド・アブデル・ハミド・アブ・タハ
“壁から落ちて怪我した者もいました。
“ひどい状況でした”

p322
「死ぬかも(と思いました)」
「ギチギチでした」
アブドゥルマリク・モハメド・クッラブ
“腕だけ動かせたので、
“誰かの肩に手をかけて這い上がり
“飛び降りました
“5メートルほど前に出たら
“壁が全壊しました……”

p323
皆で(壁に)手を付いて、押して、打ち倒したのです。
モヒ・エルディン・イブラヒム・ラフィ
「壁は無くなりました」
サル・メヒ・エルディン・アルアルガン

p324
「校庭の外に出ると、女性達は大声を上げました」
「(夫が)壁を飛び越えてきました……」
ホッソン・サラマ・バドワン
“夫は跳び越えて走りながら
“隠れられる家を探していました”

p325
「兄がまだ戻って来ないので私も家に戻らずにいました」
ラエサ・サリム・ハッサン・ハルーブ
“兄が学校に向かった時に一緒だった人がいたので、尋ねると、(イスラエル軍に)連れて行かれたという事でした。
“兄はアトリト刑務所に連れて行かれた、と”
「キャンプにはユダヤ人もイスラエル兵もいませんでした。あの人達は皆大通りにいたので……」
アーメド・ハッサン・エドワン
「……で皆自宅に走って帰りました」
匿名1

p326
「私は殺されたと家族は聞かされていたそうです」
アワド・モハメド・アーメド
「夕暮れ過ぎて……父と兄が戻って来て、何があったのか話してくれました」
匿名3
“一人、また一人と戻って来て、
“最後にやっと父が帰って来ました。父は老齢でしたから。
“家族を失った家々から悲痛な叫び声や泣き声が聞こえていました。
“そういう時、女性がどうなるか、分かりますよね。
“服を引き裂いて、
“大声を上げて泣きじゃくるのです”

p327タイトル「虎穴に入らずんば。 第二部」
こう思ってるんじゃないかな、イスラエル軍の選別作業は終了し、この1956年11月12日のラファフ事件は幕を閉じたと。
生き残った人々は最終的に学校から脱出して家に戻ったか、或いはバスに乗せられて刑務所に連れ去られた。
ではもう一つのグループ、つまり死んだ人はどうなったのだろうか?
僕達は死亡者のその後を追って関係者を捜した。
責任長アシュラフ!
オウダ・アイェシュの本から抽出したリストを翻し、アシュラフは雑貨店に突入し、側にいた人に質問した。
アシュラフ「この家族リストの中で知ってる人いるかい?」
アシュラフ「ここら辺に住んでるかな?
男「いや、一人も知らないな」
男「でもなんで知りたいの?」
アシュラフ「一人も知らないくせに、なぜ俺達が知りたがってるのか、気になると?」
アシュラフ「もう結構!」

p328
でもアシュラフだっていつもエネルギッシュなわけではないし、噛み付かない時もある。
ある晩、インタビューに出かける前、アシュラフは100ドル札を取り出した。
アシュラフはベンジャミン・フランクリンの顔をなでながら、
アシュラフ「これで今月の家賃を払う」
アシュラフ「今月の給料を前借せざるを得なかったよ」
アシュラフ「UNRWAは俺の家族に家を二軒補填してくれるそうだが……」
アシュラフ「一軒は父親に一軒は俺に」
アシュラフ「でも、俺達は4人兄弟だ」
家を貰う資格があるのは家長だけだが、アシュラフの兄弟は未婚だ。イスラエル軍に破壊された家屋の代償としてUNRWAは他の所に家を建設しているが、そのスピードは遅い。
アシュラフの番号は710で
父親は711番。
家を壊されて難民となった家族が何百もいて、皆キャンセル待ちだ。
ガザ市のUNRWA代表が言っていた。「破壊された順に建ててます」
アシュラフの予想では、UNRWAの新居に入れるのは2年後だそうだ。
アシュラフ「それまでどうしたらいい?」

p329
アシュラフ「で俺達が引っ越す時、UNRWAは何処に家を用意してあるんだ?」
アシュラフ「また境界線のすぐ側かい?」
ア「そこに住んだって、すぐまた引っ越さなきゃならんだろうね」
代替住宅はタル・エルサルタン地区に建設されているが、そこはユダヤ人入植地に面しているのだ。
ほとんどの住宅が既にイスラエル軍の攻撃を受けており、壁には銃痕があばたのように付いている。
難民用の新築住宅地は完成する前にイスラエル軍に破壊されていた。
イスラエル軍によると、入植地がこの区画から狙撃されているからだと言う。1kmも離れてるのに。
ア「アドバイスして欲しいんだが」
ア「俺はどうすればいい?」
最初、冗談を言ってるのかと思った。
ジ「どうすべきか、分からないよ」

p330
ア「父には仕事が無いし、弟は結婚したがってる」
ア「家具とか全部持って来て今の家に詰め込んだんだ、知ってるだろ?」
ア「自分達で建てたあの家の損害補償として、うちの家族が貰える物は、トタン屋根の小屋に一人で住んでるような人と同じ。その人が小屋を破壊された時に貰う物と同じ位小さいんだ」
ア「昔、イスラエル軍が家屋破壊を始めたばかりの頃は、あらゆる基金団体から十分なお金が貰えたし、サダム・フセインからも5000ドル貰えた」
ア「インティファーダが起きてまだ間もない頃、イスラエルの報復で家を失った知り合いがいるんだが、その男には今でもまだ補償金が残ってるんだ」
そんな時代はもう終わりだ。「対テロ戦争」を掛け声にアメリカ政府は圧力を強めイスラムグループからガザへ資金が流れ無いようにしているし、イラクのあの大統領も四面楚歌の状況ではパレスチナのホームレスにこれ以上お金を寄付できそうも無い。
ア「家を失って幸せになった者もいる」
ア「ボロ家を失って新しい家を貰ったんだから」
ア「でも俺はどうだ?」
ア「アドバイスしてくれるかい?」

p331
僕はまだなんと言っていいか分からなかった。
ア「こういう話をしてると気が滅入るな」
ア「俺の問題だからな」
それでも何か言おうと言葉を探した。
UNRWAの役人が言っていた話を思い出した。タル・エルサルタン地区で団地を造成する予定なのだ。
ジ「……である程度住宅を作ってるらしいから、君なら二階を増築できるかもしれないよ」
ジ「二階を足せば兄弟の部屋を作れるだろ」
僕はアシュラフを慰めれたのだろうか。それともアシュラフはただ疲れ果ててしまったのだろうか。
ア「そうなるには10年かかるよ」
ア「じゃあ10年経ったら君に電話して、家を取り戻したぞって言うよ」
ア「電話番号教えてくれる?」
やっと少し笑いが出た。
15分ほどしてから、1956年に犠牲となった人の話を聞きに行った。
しかし夜の闇に出ると、アシュラフはいつもの元気な男になっていた。
ア「アドバイスと助けを求めたのに、君はなんにも言ってくれなかったな」

p332タイトル「片付け」
死体が……
ラファフの道路や路地からここ“マティアナ”まで運ばれてきた。“マティアナ”は泥地でラファフ西側のタル・ゾロブ地区にある。どのようにして運ばれてきたのだろうか?
まだイスラエル軍が選別作業をしてる間にも、死体の片付けは始まっていた。
「女の子が泣き喚いていました」
匿名3
「ユダヤ人が男達を殺して……ラファフの西に埋めたわ」
「男性達は殺されたのよ!」
“と、何度も何度も繰り返してました。
“私は他の子供達と外に出て、辺りを憚らずに泣きました。
“その時、緑の幌を付けた青い小型トラックが目に入りました。民間トラックでしたが兵士が運転していました。

p333
”死体がいくつも折り重なり、足がトラックからはみ出していました。
“車は一台しか見ませんでした……。既に何台も通り過ぎた後でした。
“怖くなって泣きながら家に戻りました。自分で顔面を叩きながら帰ったのです。
“男性は全員残らず殺されたと思ったんです”
海岸通りの西側にあるUNRWA学校は第二集合地点だったのだが、そこに拘束されていた男がによると、自分や他の男性が解放された時―
「―死体を運んでる車を一、二台見かけました」
匿名5
“私が見たのは―これは間違い無いんですが―こういう話をする時は正確に答えなくてはなりませんね……
“本当に目撃したのは一台です。
“死体を積んだ車は走って行き、私達は学校を走って後にしました。それが目撃した全てです。
オウダ・アブドゥラ・ハジャジは政府学校から解放されて、タル・ゾロブ地区の家に帰りました。
家からは西側の風景がはっきり見えたそうだ。
オウダ「あの当時は荒野で……ビルや家なんか無かったから」
“死体を積んだトラックが見えました
“約4台、1台、1台走っていきました……
“もうすぐマグリブ(礼拝)<三上注:日没後間も無くに行う礼拝>の時間でした。

p334
“死体は捨てられ……車は去って行きました
“誰が死体を降ろしているのか、見えませんでした”
しかし少なくとも一人、死体を運んでいたのが誰なのか教えてくれる人物がいる。モハメド・アトワ・アルナジェーリだ。UNRWA配給センター近くで他のパレスチナ人と一緒に銃殺されて倒れ、血を流したまま転がっていた、あの男だ。<三上注:p220参照>
モハメド「午後になってアスル(礼拝)<三上注:午後から日没前までに行う礼拝>を過ぎた頃、車が近付いてくる音がした。車は死体を集めていたんだ」
“若い人がたくさん乗ってて、皆舌を突き出していた
“全員死んでた。
“魚みたいに。
“魚みたいに。
“積み重なってた。
車には兵士が二人乗っていて、一緒に随走していたパレスチナ人が二人こっちに来た。
“死体を運んで、全部積み上げて、
“俺が最後。

p335
“足を持って引き摺られた。
“アラブ人だと分かったので俺はまだ生きてると伝えた。
男「生きてるのか?」
モ「ああ」
男「じゃ、静かにしてろ」
男「オーケー。さぁ行こう。ここは終わりだ」
“車はいなくなり、俺は一人で道に取り残された……俺だけが。
“寒くなってきた
“皆学校に行ってしまった。皆が通り過ぎて行くのが分かったし、……銃撃も聞こえた。
“自分に言い聞かせてた‘誰か来て気付いてくれるはずだ’って」
“誰も現れなかったが、一人親しくしてる隣人が通りがかった。
「モハメドか?」

p336
モ「ああ」
モ「あの家に、あそこのドアの所まで連れてってくれ」
“涙が出た。
“涙がこぼれた。
“一番親しくしてる隣人なのに、俺を放って行ってしまったんだから。
“その後、俺が撃たれた時に背にしていた家から女性が顔を出して、夫に伝えたんだな、男が道の中ほどに倒れていてまだ生きているようだと。
“夫とその父親が来て、俺を毛布で包んで……病院に連れて行ってくれた。
“傷が痛くて大声を上げた、叫んだよ……
夫「イスラエル兵に聞かれしまうぞ」
夫「お前はもう死にかけだけど、こっちはまだ生きてんだ」
“病院のベッドに寝かされ、
“服は血で固まってジャケットみたいに厚くなってた。ここの病院ではハサミで服を切るのが精一杯だった。
“他にも負傷者は沢山いたが皆そこで一晩寝て、翌朝になると救急車数台に乗せられガザ市へ搬送された。

p337
モハメドのインタビュー二回目。パレスチナ人が死体を回収していた話についてもっと詳しく聞く。
モ「俺を引き摺ったのは警官だったな」
モ「制服だったから」
しかし、道路から死体を集めたこのパレスチナ人は本当に警官だったのだろうか?
その後このパレスチナ人はどうなったのだろう?
ある噂話を何度も聞いたのだが。
「イスラエル兵は死体を車で運んで……墓を掘らせてから撃ち殺した」
アブデル・ハディ・モハメド・ラフィ
「……穴を掘らせてから、殺して埋めた」
モハメド・ユセフ・シェイカー・ムーサ
「死体を埋めた後に撃ち殺されて、一緒に埋められた」
アーメド・ハッサン・エドワン
残念ながら裏付け証拠が取れなかったので僕とアブドはこの噂話を「伝説」の項目に入れようとしていた。しかしある日、情報が入った。イスラエル軍が国連公衆衛生局長に命じて職員に死体を回収させたというのだ。
局長は既に亡くなっていたが……
その後何回か電話をやり取りして、今、局長の息子に話を聞いている。彼も現在国連衛生局で働いている。
そう確かに息子は話を知っていた。父から聞いた事があるそうだ。
数日後、局長の息子の車に乗ってイブラヒム・セイカーという男を捜した。この男は当時局長の下で働いており、死体回収を担当した一人だったらしい。
そしてなんと、ここイブナの路上にいた!
おーい!おーい!僕を覚えてますか?僕の父親を覚えてる?
もちろん!もちろんだとも!
車に乗ってくれる!話があるんだ!
でもドミノをしに行くところだから!
いいから車に乗って!

p338
そして今、オフィスに腰を落ち着け、僕とアブドは視線を交わして、これは間違いない、僕達ジャーナリストの勝利は目前であると期待に胸を膨らませた。
いよいよ、死体を実際に回収した男に話を聞くのだ。
全てが符合する!
アルナジェーリは重傷を負って意識が朦朧としてたから、死体を回収していたUNRWA職員の制服を見て警官だと勘違いしたのだろう。
しかしイブラヒム・セイカーの話が始まると、期待はみるみるうちに萎んだ。
イグラヒムの話は1956年じゃなくて1967年だ。
六日間戦争<三上注1967年6月の第三次中東戦争>中に前述の政府学校に隠れていたエジプト兵の話だった。
学校にいたエジプト兵がイスラエル軍に殺された。
イグラヒムの話によると、死体は20日間も放置されたままで、その後イスラエル軍がUNRWA職員に死体を片付けるよう命じたそうだ。
イブラヒムは片づけをしたうちの一人だったが“でも腐臭がひどくて、いられませんでした”
僕達もいられない。
興味が無いからね。
1967年は僕らの管轄外なんだ、

p339タイトル「リスト」
アシュラフは無骨だ。
アシュ「息子を埋葬した父親を捜すんだ」
アシュ「パレスチナ人の心は鉄の如し」
誰の感情も害したくないから、もう少し穏やかにやってほしいんだけど、アシュラフもアブドもそんな遠慮は無用と思っている。
オウダ・アイェシュのラファフ死亡者リストを持って難民キャンプを歩き回る。
やり方は簡単だ。
名前を選んで、その人の親類が住んでそうな家を探して、ドアを叩く。
“どなたか、あの、えー、この殉教者をご存知の方はおりますか”
しかし僕らのやり方は間も無く暗礁に乗り上げた。
例えば、息子を殺されたお爺さんに話を聞いた時、確かに息子は56年に殺されていたけど、場所はハーン・ユーニスだった。
息子が何処に埋められたのか今でも分からず、老人は涙を流した。
この女性の父親は連行され、確かに殺された、でも57年3月、イスラエル軍が撤退してる最中の出来事だった。
これで分かったのだが、オウダ・アイェシュのリストに載ってるのは1956年11月12日その日に殺された人だけではないのだ。つまり56年前後に殺されたラファフ出身の人全員が含まれており、その中には兵士もいたし、ラファフ以外で殺された人も入っていた。

p340
ある晩、シャブーラで数人の男にリストを渡すと、彼らはそのリストを街灯に照らし、暗い中、僕たちを細道へ導いた。
アブドはライターでリストを照らし、その個人の名前を暗記した。
ラマダン・モハメド・アルモダレル
ラマダン・モハメド・アルモダレル
アブドに自己紹介をまかせる。
アブド「友人のジョーは作家で1956年のラファフとハーン・ユーニスで何が起きたのか取材しています」
アブド「オウダ・アイェシュの本から殉教者リストを作ったんですが」
アブド「アルモダレル家の人が殺されたと書かれていたので、その家族に面会できるかと思って来ました」

p341
青年は起きたばかりで、僕らが何を言ってるのか理解してなかった。
アシュラフ「ご老人がおられるなら、中で話を聞かせてもらえるかな」
アシュラフ「故人について何かご存知かもしれないから」
青年の祖母が玄関に現れた。
アブド「お聞きしたい事があるのですが、56年に亡くなられたラマダン・モハメド・アルモダレルさんについて」
祖母「え!?」
祖母「見つかった!?」

p342タイトル「ラマダン・モハメド・アルモダレル」
祖母「私達はラマダンの親類です」
祖母「ラマダンは夫のいとこですが」
祖母「どこにいるのか分かりません」
祖母「ラマダンはあの時、軍隊にいましたが、海岸に逃げて、それ以来戻りませんでした。ラマダンはハーン・ユーニスにいました」
祖母「その昔ジャッファ出身の垢抜けた女性と結婚しましたが、その女性はアンマンに出て行き、ラマダンはここに戻ってきました」
祖母「ラマダンが6歳の時に母親は死に、私達はラマダンを養子に出しました。多くの知り合いに養ってくれるようお願いしました」

p343
祖母「ラマダンは一人息子だったのに」
祖母「アルモダレル家は跡取りを失ったのです」
祖母「どうぞ中へ!」
祖母「お菓子とお茶を入れましょう」
すいません、急いでいるのでと断り、それではまた、と挨拶した。
祖母「遠慮せずに!」
祖母「どうぞ入って!」
祖母「ラマダンが見つかったかと思ったのに」

p343タイトル「埋葬」
先程の老女は親類の安否が分からないまま約50年暮らしてきた。1956年11月12日の夕方、ラファフではたぶん何百人もの人が愛する人の安否を気遣っていたに違いない。
モハメド・ジュマエルグールが語ってくれた。
モハメド「家に戻れなかった人は」
モハメド「死んだか、捕虜になったかのどちらかでした」
アブデルワハブ・マハムード・アブデル・アスマルは兄と甥の消息が気になっていました。
アブデル「兄と甥は夜になっても戻って来ませんでしたので、撃ち殺されたんだろうと思い始めていました」
ラティファ・アルキーシは行方不明の夫を心配していた。
ラティファ「私の父親が学校から戻って来たので‘夫を見かけたか’と尋ねました」
父「うん。学校に着いた時に見かけたが、それ以降は見ていない」
ラティファ「バスには乗ってた?」
父「いや」
“一晩泣き明かしました。夫は皆と一緒に殺されてしまったと思ったのです。
“とても眠れませんでした”

p345
或いはアーメド・ハリル・アルバワブ一家のように、家族が戻ってきても死んだり。
義兄のサレア・ハッサン・アワジャは校門の所でひどく殴打されていた。(*)
(*)p230参照
サレはあの日、解放されるまで持ち堪えたが、
アーメド「サレは学校を出て……一緒に家に着いて間も無く死にました」
アーメド「まだ生きてると思ったんですが、連れて行った医院先で、もう死んでいると言われました」
マリアム・アルナジェーリのような人も少なくなかった。マリアムの場合は夫のモハメドが射殺されたからだが、マリアムのように近親者が殺されたという知らせを受けた人々は危険を覚悟で外に出て、遺体を捜し歩いた。
マリアム「義姉が泣き叫んでました」
マリアム「あなたの夫は死んだ!」
マリアム「あなたの夫は死んだ!」
“義父から遺体を連れ帰って来てくれと頼まれ……私といとこと義姉妹で外に出ました。
“捜し回って……夫の服で……死体を確認しようとしました。

p346
“まずサボテンの側にいる……一人目の所へ。その横にもう一人。三人目は私の両親の家の前に、その近くにもう一人。これで四人。
“しかし夫はいませんでした。
“(その時)銃撃が始まりました。
“あの時私は妊娠5ヶ月でした。
“走れない私は置いていかれてしまったので、両親の家に入りました”
死体はタルゾロブ近隣の泥地に捨てられているという噂が広がりつつあった。
オウダ・アブドゥラ・ハジェジは最初にその泥地に向った者の一人で、トラックが死体を泥地に運んで行くのを見たという。
オウダ「親類が一人戻らないままだったので、その父親が‘捜しに行こう’と言ったのです」

p347
“とてもとても沢山の人がいました。
“ほとんど女性でしたが男性もちらほら……
“死体をひっくり返して顔を覗き込んでました
“……次々と移りながら
“親類が見つかると、毛布でくるんで持ち帰ってました。
“ぞっとするような光景でした。
“みんな怖がってました。
“泣き叫んだり大声を上げる人はいませんでした。
“少し、おいはぎみたいにも見えました。

p348-349台詞なし

p350
オウダ「死体は見つからず、私達は家に帰りました」
オウダの行方不明の親類はエジプトに逃げていた事が後に判明した。
あの夜、アーメド・ノマン・ゾロブも戻らぬ親類を捜して泥地に向っていた。
ア「ユダヤ人に見つかりたくないので、皆身を低くしていました」
ア「暗かったのでサボテン畑に身を潜めながら進みました」
“あの泥地に着くと……
“沢山の死体が、多くの死体があちこちに累積していました。
“こちらに一グループ、あちらに一グループ、トラックが来る度に捨てていったのでしょう……
“魚を捨てるみたいにね……”
ア「親類の死体はありませんでした」
ア「捕虜になっていたのです」

p351
アブドゥラ・アブデルラヒーム・ガニムに会いにOブロックへ向う。この人物は1956年のあの日親類を大勢失っていた。
しかし悲劇はまだアブドゥラについて回ってる。
最近イスラエル軍がアブドゥラの三階建ての家を破壊したのだ。ここには親類四家族と一緒に住んでいたのだが、そのうちのほとんど、24人になるが、現在は老朽化して閉店した店の奥にすし詰めとなって生活している。
アブドゥラの息子達は、僕達が洗い直している大昔の事件よりも、今ここで起きている事、破壊された家の事を話したがっていた。
息子1「蝿が飛んでるのはイスラエル軍が下水設備を破壊したからです」
息子2「死ぬまでここにいるしかないでしょうね。だって他に選択肢が全く、何処にも無いんだから」
心臓病を患い、もう20年も働いていないアブドゥラではあるが、僕達の1956年調査に快く応じてくれた。
当時10代だったアブドゥラは兄のイスマエル・アブデルラヒーム・ガニム、おじのユセフ・ハリル・ガニム、いとこのイッサ・ムスタファ・ガニムを捜しに泥地に向った。
ア「タル・ゾロブ付近に死体が捨てられてると、皆言ってたのでね」
ア「いとこと、私の兄夫婦と……近所の女性全員で走って行きました」

p352
“私の一族は地面に打ち捨てられて死んでいました。
“中には塹壕にぞんざいに埋められてる人もいて、少し砂がかけられていました”
死体は何体ぐらい?
ア「数えませんでしたが、50か60体以上」
ア「他の人は塹壕に埋まっていました」
“埋まってた人は掘り出されました。
“親族の死体を見つけたら持ち帰る、皆そんな感じでした。知り合いがいれば手伝った人もいたでしょうが、まずは自分の家の遺体が一番大事です。
“私達は親族の遺体を全て持ち出してタル・ゾロブ墓地に埋めました。ラファフの西側にある墓地です”

p353
タル・ゾロブ墓地には今、IDFの塔がそびえ立っている。
以前IDF塔の恐ろしさを知らなかった頃、アブドと僕はその下を通って墓地に行った事があった。
子供「怖いでしょ?」
子供「あの土手でよく遊んだんだ」
子供「怖いでしょ?」
古い墓はだいたい家族墓で―フスジェイェと言われる―ラファフ先住者の墓だ。
しかしあの夜、誰の家の墓かなんて気にしていられなかった。墓板をどかし、死体を受け渡して見ず知らずの死体の上に安置した。
ア「遺体をフジェイェ墓の中に入れて、すぐ立ち去りました」
ア「一週間ぐらいたつと、遺体をもう一度墓から出して別の場所に埋葬し直す人もいました」
ジ「あなたの親族はまだあそこに?」
ア「そう、今でも」

p354
翌朝陽が昇って来ても人々は戻らぬ人をひっそりと捜し続けていた。
ラティファ・アルキーシは母親と一緒に父親を捜し回っていた。
ラティファ「ジープや軍車両の音がする度に、家の影に隠れました」
やっと親類の一人に会えたのだが、その男によると、父は捕虜になったという事だった。
男「心配するな。捕虜はバスに乗せられていたから」
その日の午前中遅くなってからイスラエル軍は短時間だけ外出禁止令を解いて、人々に負傷者の世話をさせたり、置き去りになったままの死体を埋葬させたりした。
マリアム・アルナジェーリは夫が無事でUNRWA診療所にいると聞いた。
マリアム「大勢の人が親類を捜して色んな所から来ていました」
マリアム「多くの、非常に多くの人が」
“診療所の前は兵士が立ち塞がり、入れてくれませんでした。
“でももし私が入ってたら、泣き叫び、大騒ぎしてたでしょうね。
“夫の状態を中で見れなかったおかげで、そうならずに済みましたが”

p355
一昼夜置き去りにされたままの死体が路地や横道から集められたが、中には身元がはっきりしない人もいた。
モハメド・ユセフ・セイカー・ムーサ
「(近所の男が)射殺されて……誰かが家に運びこんだのですが、男は(そこで)死にました」
“私の父と叔父はその男を毛布で包み外に出して、通りがかりの人が分かるように顔の部分をめくりました。
“その男の家族が来て、見つけ、連れて行きました”
ナスラ・フェルフェルの夫は前日玄関前数メートルの所で射殺され路上に倒れたままになっていた。
「夫の遺体を埋葬する為に、私には助けが必要でした」
“夫の親類が別の場所で殺されており、ロバの荷車に乗せられてやってき来ました……
“私も一緒に東の墓地に向いました”

p356
その頃タル・ゾロブの泥地に人々が続々と集まって来たが、まだたくさんの死体が転がっていた。
僕は疑っているが、アブデルワハブ・マハムード・アブデルワハブ・アルアスマルは兄と甥を捜しながら、二つの死体群で133人まで数えたと言うのだ。
アブデル「一人一人数えたよ」
“そして三つ目の死体群で(兄の)娘が……兄と甥を見つけた。
娘「お父さんだ!」
娘「来て!」
二人を毛布で包んで大通り(の近く)に埋めた……他の場所に持って行って埋める時間は無かったから……”

ア「一ヶ月もすると外出禁止令も無くなり、緊張も解けたので、私は埋めた所に戻って遺体を掘り起こしたよ」
アブデルワハブは兄と甥をタル・ゾロブ墓地に埋葬した。

p357
サレ・メヒ・エルディン・アルアルガンはいとこのアブドゥラが校門で殴打され引き摺られて行くのを見ていた人物だ。(*)
(*)p242参照
「父と一緒に行ってみると……70体ぐらい死体があって、その中にアブドゥラもいました」
ジ「自分で死体を数えたんですか?」
サレ「あそこにいたんだよ!」
アブド「あなたが数えたんですか?」
サレ「あの辺りだけで70体だ。(でも)他にも死体は沢山ありました」
“アブドゥラは白いハッタを被っていました。頭は割られて口から血を流していました。
“泣き出した父に言いました、
サレ「ここには70人もいてアブドゥラはその一人だよ」
サレ「なんで泣くの?」
サレ「泣かないで!」

p358
“二時間以内に死体を運んで墓地の家族募に入れようと、皆急いでいました……
“私達はアブドゥラを腕に抱えて運びました。
“中には死体を引き摺ってる人もいました。
“全員一緒に入れました。
“一つの家族募に4~5人です。(上に)積み重ねるようにしてね”

p359
サレ「時間が無かったんです」
サレ「掘ってる時間は無かった」
サレ「二時間しか無いんですから」
サレ「親族を墓に入れたら、皆飛んで家に帰りました」
ハドバ・アルナジェーリは当時小学一年生で、兄のモハメドは重傷を負ってガザ市に運ばれていた。
あの大量殺人の後、一週間程経った頃だろうか、彼女の目に焼きついている出来事があった―
“愛する人を失った女性が境界線付近に集まって、大声を上げ、泣き喚いてマルタマ<三上中マルタマ:悲しみの表現>をしていました。
“10~15人か、20人くらいの女性が髪を振り乱して地面を転がり、砂をかぶっていました……
“今でも憶えています”

p360タイトル「ハルマゲドン」
時々銃撃があって救急車が走り抜けても、その1km先で何が起きているのかほとんど分からないんだから、もっと遠いバグダッドやワシントンで何が起きてるのか、分かるはずも無い。
僕は心ここに有らずで、1956年11月のほんの数時間だけど、細かくて複雑な時間の中に迷い込んでいた。
ラファフの古老達とインタビューの約束を取り付け、その合間に昼食を詰め込む日々の中で、ハルマゲドンが急速に接近中であると、アブドが教えてくれた。
ジ「コンドリーサ・ライスだ。なんて言ってるの?」
アブド「武力のみがイラクの兵器を撲滅出来るだろうって」
僕が昔の出来事に頭を深く突っ込んでいる間にも、ラファフの人達は迫り来る現実に対し心の準備を始めていた。
サラ・アルディン通りでは覆面のハマスメンバーがこれ見よがしに偽の爆弾ベルトを体に巻き、子供達は“大魔王と戦う男”の写真を掲げて一緒に行進していた。

p361
演説者は、鼓膜が破れそうな大音量で、差し迫るイラク攻撃を公然と過剰に非難していたが、このデモを手伝ったハニは演説者になれないようだった。
ああ、ハニは非難の言葉を用意していたのに、出番が取り消されたとは。
おもちゃの戦車と戦闘機に火が放たれ、燃え上がった希望の炎が鎮火するとデモは終わりに近付いた。
ハマスのメンバーは海岸通りを静かに行進し、子供達は教科書の重みに耐えながらどうにか後ろに付いて行った。

p362タイトル「死」
ある日の午後、家主の息子サメがペットボトルの飲料水とニュースを持って来てくれた。
国際連帯運動のアメリカ人女性活動家がラファフでイスラエル軍の家屋破壊に抗議している時、イスラエル軍のブルドーザーに轢き殺されたと言う。
アブドは何回か電話した。
アメリカ人女性は死んで
遺体はアルナッジャ病院に安置されている。
ラファフはパレスチナ地域で最も危険な場所だ。
でも僕がここに来てからの数週間は比較的静かだったんだ。ガザの他地域では暴動が頻繁に起こっていたけれど。
殺されたのは三人だけだったし。イスラム聖戦のメンバー二人がトンネルに潜っている所をイスラエル軍に潰されて死んだのと、僕達がバルコニーから眺めていたあの少年の葬儀だけだ。
死んだ女性活動家の同僚が病院にいたので目撃状況を聞いた。
レイチェル・コリー23歳、ワシントン州オリノピア出身。彼女は外国人グループに所属し、エルサラーム近郊の家屋破壊を止めさせようと活動していた。

p363
どうやらコリーはブルドーザーが盛った土手から滑り落ちて、
押し潰されたが、ブルドーザーは彼女の上を直進し
排土板ブレードを下げたまま後退した。
しかし今日の死傷者はまだ続く。
赤新月<三上注赤十字社の支部。赤十字にマークは十字軍を連想させるため、イスラム国では好まれない>の救急車が飛び込んできた。
また一人、被害者が緊急治療室へ急いで運び込まれる。
アーメド・アルナッジャ、49歳。ラファフのタル・エルサルタン近隣在住。伝えられるところによると、アーメドが玄関先に立っていた時、イスラエル軍に頭、胸、脚を狙撃されたそうである。運ばれて間も無くアーメドは死んだ。
服に血が付いたままの親族が大声で泣きながら遺体を運び出して行く。
コリーの友人がショックを受けたのと同様に、この親族もショックを受けているだろうが、「血族が殺される」という事自体はここでは何もショッキングな出来事では無いのだ。
ガザでのパレスチナ人殺害はもう日常茶飯事になっていて、一人の死はその近親者、友人、隣人に影響を与えるだけで、それ以外の人には何も伝わらない。
でもアメリカ人が殺されると―

p364
アブドと僕は隣接する遺体安置所に向った。
皆、道を明けて僕達を通してくれた。
コリーの友人は、信じられないといった面持ちで立っていた。
僕の友人でカメラマンのアシムは意気消沈して壁に寄りかかって座っていた。
地元の写真ジャーナリストや西側テレビ局配信員がいつも通り自分の仕事をしている。
二時間前アメリカ人のレイチェル・コリーはイスラエル軍のブルドーザーに轢き殺されました。彼女はパレスチナ人の家屋を守ろうとしていたのです。
彼女はもうすぐ、肖像画に描かれるような歴史的人物になるだろうね。
でも病院スタッフにとってはどうでもいい事だ。
今のところ、コリーはまだ病院での処置を必要としている。
作業に取り掛かるから、皆部屋から出るよう、スタッフに言われた。

p365タイトル「闇に浮かぶ影 第二部」
装甲車がキーキーと音をたててひっきりなしにフィラデルフィルートを走っていく。その音が数十メートル離れた所にあるファアドのアパートや近隣の建物にこだましていた。
フアドは爆発があっても窓が割れずに済むように少し開け、また、避難経路も考えていた。
フアド「こっちから入って来たら、ドアから逃げる……」
フアド「こっちから入って来たら、窓から逃げる」
イラク戦争が今晩始まるのではないかと言われており、ラファフではイスラエル軍がそれに乗じて攻撃してくるかもしれないと気を引き締めていた。
フアドはアパートで警戒するつもりだったが両親に説得されて、少なくとも危険そうな数時間はアパートを離れる事にした。
今晩は僕達の所で寝るんだ。

p366
海岸通に向う途中、二箇所危険な所を横切らねばならない。ほんの数秒で渡れるけど、建物や障害物が無いので、タル・ゾロブ塔から丸見えになってしまうんだ。
この近くで数週間前、あのジャベール家の姉妹と女の子がロケット攻撃を受けたのだ。<三上注p293参照>
フアド、アシュラフ、アブド、僕の四人。
でも1.5km先から暗視カメラで見てる兵士にとっては、夜中に境界域をうろつく怪しい四人の影だ。
曳光弾が!
頭上をビュンビュン飛ぶ!
僕は前方に走った。
友人達は後ろの壁に走り戻った。
あっちはタル・ゾロブ塔の視界から外れるが、僕は丸見えだ。

p367
友人は馬鹿な事をしたもんだと笑っていた。
曳光弾が止むと僕も笑い出した。
たぶんあれは僕達を威嚇する為か、早く行けという警告だったんだろう。
僕達は道を走り抜けて海岸通りに向った。
まだ笑っていた。
ともかく僕は笑っていた。
アシュラフ「ジョー、落ち着いて」
ア「皆、君の事がとても好きだし」
ア「君を失いたくない」
ア「でも銃弾は俺達と外国人を区別しないよ」
ア「なぜ前方に走った?」
ア「走って止まった」
ア「なぜだ?」
ア「ああいう時にはルールがある」
ア「見て」
ア「考えて」
ア「動く」
ア「見て」
ア「考えて」
ア「動く」
ジ「見て」
ジ「考えて」
ジ「動く」
でも僕はまだ笑いが止まらなかった。

p368タイトル「あれ見たかい?」
イラク攻撃が始まって最初の金曜礼拝の日、ラファフ中のミナレット(塔)から、先導者がアジりながら説教していた。皆は近くのイマーム<三上注指導者>がガナリたてる激しい非難に耳を傾けていた。
「イスラエル、アメリカ、イギリスは悪の三大帝国である!」
「モスリム同胞諸君、未来はイスラムの側にある、しかしその為には犠牲を払わねばならん!」
「パレスチナ人とイラク人が、今、その犠牲となっている!」
戦争!
高まりつつあった恐怖は願望へと取って代わられ、パレスチナ人は、バクダッドの夜空を飛ぶアメリカ爆撃機が対空攻撃を受けて撃墜されますようにと、願い祈っていた。
神に感謝、勝利の第一報だ!
二台の敵ヘリが衝突しアメリカ兵が死亡。
僕達がちょっと買い物をしに立ち寄った電気店では、店主がテレビから目を離せずにいた。
店主「やつらの死体をバラバラにして、ぐちゃぐちゃに混ぜちまえばいいんだ」

p369
ハレドは連合軍側の死者数を数えていた。
ハレド「約23~25人だ」
アブ・アーメドはアメリカ兵が更に四人殺されたと聞いて喜びを隠せずにいた。
そしてもしこれに、ヘリコプターで死んだ人を足したらトータル何人だ?
アブ「神の意思、神の意思だよ、アメリカは崩壊する」
西側メディアは嘘ばかりだと言う。
みんなアブ・ダビ放送局かアル・ジャジーラを観ている。
ハニのお気に入りはイラクのテレビ局だ。その方が落ち着くらしい。
サダム・フセインが剣を振り回してる映像が映し出される。
フセインが子供達と挨拶を交わしている時にも、戦車10台以上破壊!戦闘機6台破壊!とニュースが入る。
イラク南部のベドウィンには、アメリカ兵を自分の土地で捕らえても、首を切り落としたりしないように命令を出した。
イラク人はお札を燃やして、侵略者を殺すのに報奨金はいらないトアピールする。
戦って、戦って、戦い抜くんだ!
ハニ「サダムは勝利するよ」
ハニ「アラブ世界が、地球全体も、アメリカの敗退で変わるだろうね」

p370
翌日イラク政府はアメリカ兵捕虜を公開するという約束を果たした。
怖くて震えている姿を見よ!
アメリカ人の死体が画面に映し出され
傷をアップで映す。
僕はたじろいだ。
死体の映像を見て気持が悪くなった。
アブド「ジョー、あいつらは兵士なんだ」
アブド「兵士なんだから」
アブド「人を殺す為にやって来たんだ」
横の男「もしアメリカがこの戦争に勝てば、一番損するのはパレスチナ人だな」
つまり彼らにとって問題なのは、アメリカが勝てばイスラエルの優位が永遠に決まってしまう事なのだ。
地政学的な憂慮は置いといて、皆、今を楽しんでいた。
「あれ見たかい?」

p371
数日間はそんな感じで、ヘリコプターを撃墜したとか、何十台もの戦車を炎上させたとかのニュースが続いていた。
男「老人がアパッチヘリを撃ち落した映像観たかい?」
男「あれ観たか?」
男「サダム・フセイン間違いなし!」
しかし皆が皆、安っぽいプロパガンダに酔いしれてる訳では無いし、アメリカ軍が少し後退したからと言ってイラクが勝つと思ってる訳でも無い。
ハレドの考えは極めて哲学的だ。
幻想を剥ぎ取って、自分を省みているようでもあった。
ハレド「勝利は問題じゃない」
ハレド「最後まで抵抗を続けるかどうかが問題なんだ」

p372タイトル「暴動中の死傷者」
新たな戦争が始まったけれど、もう一つの、僕達の戦争、アブドと僕の、つまり1956年のスエズ戦争は終わりに近付いていた。
実際のところ、僕は言わなかったけど、もう終わっていたんだ、あのラファフでの出来事が起きた時には。
大略はこんな風に進んだ:
1956年11月5日と6日イギリス軍とフランス軍はエジプトのポートサイドとポートファハドに陸海両方から攻撃を開始。
しかしアメリカのアイゼンハワー大統領は英仏合同攻撃に危機感を抱いた。この攻撃によって、エジプトに対するソ連の発言力が増し、結果としてアラブ世界全体がおかしくなるのを恐れたのだ。
アメリカの圧力に負け英仏軍は侵攻作戦を中止。両国政府は恥をかかされた形となった。
両軍は1956年12月22日にエジプトを撤退した。

p373
この戦争でシナイ半島を占領したイスラエル軍も断続的に撤退を開始したが、ベングリオンはガザ地区を占領下に置くと宣言した。
業を煮やしたアメリカ政府は国連でイスラエルに経済制裁を加えると脅した。
ベングリオンもこれには逆らえず、イスラエル国防軍は1957年3月16日にガザ地区も含めてシナイ半島から完全に撤退した。
しかしその頃既にガザ全域における、そして特にラファフにおけるイスラエル軍の行動に疑問の声が上がっていた。
アメリカ陸軍中佐R.F.ベイヤード率いる少人数の国連監視団がガザ市に駐留していたが、イスラエル軍は何週間も監視団の邪魔をして占領地域に足を踏み入れさせなかった。
1956年11月13日ベイヤードは上官に報告している“イスラエル軍が国連監視団に来てもらいたくないと思っているのは極めて明らかです。イスラエル軍が一般市民にしている事をレポートしてほしくないのです。
“我々が受け取ったUNRWA職員レポートと国連監視団が目撃した極少数の出来事から以下の結論に至りました。イスラエル軍は正当な理由無く市民をぞんざいに扱い、かなりの市民がこれといった理由も無く平然と射殺されています。

p374
ラファフ約50人のアラブ人が殺されたという報道記事が出るようになると、国連事務総長ダグ・ハマーショルドは11月21日にイスラエル外務省長官ゴルダ・メイヤーに手紙を出し“ガザ地区、特にラファフでの状況について”“非常に遺憾に思います”と伝えた。
メイヤーはこれに答え、ラファフについては“この地域全域は完全に平穏であり、イスラエル当局と地元民の関係は良好である”と返答した。
イスラエル兵による大規模虐殺についてメイヤーは書いている“エジプト人スパイが煽動して11月10日と12日にラファフで暴動を起こさせ、
“暴徒がその混乱に乗じて町のUNRWA食料センターを襲った為、イスラエル当局はその大規模な強奪と破壊を防ぐ為に行動を起こさざるを得ませんでした。
“困難を伴いましたが、秩序は回復しました。残念ながらその暴動で死傷者は出てしまいましたが”
11月23日、外務・防衛委員会に所属するクネセト議員13名が国防軍参謀総長に質問し、ガザでイスラエル軍をどう指揮したのか尋ねた。この非公開会議でモシェ・ダヤンは“境界線地域で、軍の一部が捕虜にすべき人々を撃ち殺してしまった可能性はありますと発言した。
モシェ「……しかし捕虜を一列に立たせて射殺したというような事例は聞いておりません」
MK(*)モシェ・アラムは“ラファフでは実際何が起きたのか”知りたかった。
(*)MK:クネセトのメンバー
モシェ「ラファフではちょっと不幸な出来事が重なりまして、アラブ人の中には正確の曲がった者もおり……」

p375
“我が部隊は第二部隊と交代する為ラファフを後にしましたが、まだ第二部隊は到着していませんでした……それで(ラファフ住民は)もうイスラエル軍は戻ってくるつもりが無いんだ思い込んだのでしょう”
ダヤンの説明によると、翌日第二部隊がラファフに入ってエジプト兵と武器を探し回りまわりました。
モ「……スピーカーを使って外出禁止令を出し、男性は全員出て来て集まるよう告げたのですが、男達は出て来なかったばかりか、外出禁止の指示にも従いませんでした」
“エジプト兵は大勢いたし、武器を持ち指示に従わないアラブ人も沢山いました。先程、変わった性格の人間がいたと言ったのはこの事です”
モ「なのでイスラエル部隊は銃撃したのです。どこで銃撃したのか、アラブ人も銃撃してきたのか、私は知りませんが」
モ「約40人が殺されました……」
モ「……しかし、住宅地に200人も兵士がいて、降伏したがらず、又、一般人にも兵士である事をイスラエル軍に伝えないようにさせていたのですから、こちらから銃撃した部隊長の判断は全くもって正当です」
ダヤンが言うには、最終的にアラブ人も“命令に従い身分証を持って降伏し、結果200人のエジプト兵がいたと判明したのである……”

p376
11月28日ベングリオンはクネセト議会がラファフ事件について真相究明しようとしたにもかかわらず、これを拒否し、代わりにメイヤーとダヤンの報告を混ぜ合わせたような説明をした。
国連の食料庫が襲撃され、イスラエル部隊の交代中も暴動は続いていた。
イスラエル軍は外出禁止令を発令し、武器の回収を始めた。
ベン「しかし多くの町民が禁止令を破り、我が軍に発砲」
ベン「我が軍は何度も空に向けて威嚇射撃してから、しかたがなく、暴徒に対して発砲し、結果48人を射殺し何人かに怪我を負わせた」
ハーン・ユーニス虐殺を概説した、あの同じ国連総会提出特別報告書(*)にUNRWAがこのラファフ事件の事も書いているが、ここにも相反する主張が併記されている。
(*)p117参照
“ガザ地域を占領していたイスラエル当局によると、ラファフ難民キャンプの住人は敵対的で、選別作業中にも抵抗活動をしてきた為、死傷者が出てしまった
“しかし、そのような抵抗は一切無かったと難民側は主張している”
“認め得る事実”としてUNRWAが結論したところによると、ラウドスピーカーで集まるように指示して回ったが、それを聞いていなかった難民もおり、又、十分な時間が与えられなかった為男性達は指定場所にたどり着けなかった。
“その混乱の中で多くの難民は遅れてはまずいと思い選別会場に押し寄せ、イスラエル兵がパニックになって迫り来る群集に向って発砲した可能性もある”
複数の資料から判断したUNRWA局長の考えによると、1956年11月12日ラファフで111名が殺され、そのうち103人が難民、7人が地元(“先住”)居住者、1人がエジプト人であることは“間違いない”そうだ。

p377タイトル「帰還」
イスラエルとエジプトは最終的に捕虜を交換し、ラファフからアトリット刑務所にバス輸送されていた人々が家に帰って来た。
1956年11月12日に重傷を負ったモハメド・アトワ・アルナジェーリは約三ヶ月もガザ市の病院に入院していた。
当時の体験を今は笑って話せる。
モハメド「10日後に友人が会いに来てくれた」
モ「友人はラファフからガザ市までずっと海岸沿いに歩いて来たんだ」
“友人は言ったよ”
友「大丈夫かい、モハメド?」
モ「大丈夫かって?」
モ「そんなわけないだろ?」
僕は妻のマリアムにモハメドがいなくなってからどう思っていたか聞いた
マリアム「私は妊娠していました」
マ「なのでガザ市まで歩く事は出来ませんでした」
マ「でも救急車に頼んでよく食べ物を夫に送ってました」
マ「衣服も」
マ「救急車の人が夫が撃たれた時の服を持って来てくれました」
マ「ハサミで切られてました」
マ「夫の下着は血だらけでした」
“夫の服や下着を全て洗いました
“どう思ったかですか?
“私は狂いました
“頭がおかしくなりました
“私の夫に起きた事を見て気が狂いそうでした”
マ「私の愛する人に」

p378
“ありがたや。夫の服を受け取った時、夫が皆と一緒に埋められてしまわなかった事を神に感謝しました。
“(その服を)枕に入れました。
“形見として取って置いたのです。
“私は結婚したばかりでしたから。
“たった五ヶ月前に結婚したばかりだったのです。
“私は決して枕を手放しませんでした。
マ「そして今、有り難い事に私には10人の子供がおります」
マ「息子が6人娘が4人」
マ「長男は死にました」
マ「心臓発作で」
マ「でも神に感謝します」
マ「私はいつも泣いてばかりですが、他に何ができましょうか?」
マ「神に感謝します」
マ「長男は46歳でした」
マ「元気で私の横に座っていました」
マ「毎日、多くの人が殺されています……」
マ「人間の運命は誰にも変えられません」
“死んだと思われてたので、夫は運ばれてゴミの中に捨てられてしまったかもしれません。しかし最後の最後で―
“有り難い事です。
“何が起こるかなんて誰にも分かりません……”
マ「誰も夫が戻って来れるなんて思ってもいませんでした」
“みんなで彼の世話をしました。神に感謝します”

p379タイトル「廃屋」
ラファフでの最後の日々。僕はJブロックで知り合った人々と出来るだけ一緒に過ごした。
フアドに会うのも今日が最後だ。
鳥達が家に空いた銃痕に巣を作り、家主の代わりに住んでいた。
アシュラフ「もしこの巣が破壊されたらUNRWAから補償を受けれるかもな」
攻撃を受けたアシュラフの家に向う。毎日巡礼のように来ていたアシュラフの父はもう来なくなっていた。
イスラエル軍が最終的に家屋を破壊する時、何のためらいも無く“廃墟”になっていたからと言うだろう。
厳密に言えばそうかもしれないが―そんなずうずうしい専門用語で誤魔化してどうする?
アシュラフ「こっちは新しい傷だ」
また新しい銃痕が壁についているが、アシュラフ一家は今でもこの破壊された家の所有権を主張し続けている。

p380
イスラエル軍は特に窓や扉をブロックやトタン板で塞いで、不審者、特に闘士が入れないようにしていた。
アシュラフが“隠し扉”と言う床より高い位置にあるくぐり戸を抜けて中に入った。
中は酷い状態。
ここでも鳥達が跡を継いで住んでいた。至る所に卵が落ちていて床は汚れていた。
屋上から辺りを見渡そうとして―
アシュラフ「止まれ!」
装甲戦闘車両が土手の上にいて全方位を見渡していた。
僕達は“廃墟”となった建物から顔を出すような危険は犯したくなかった。
もう少し安全なバルコニーに移動して、長く伸びる家並みを眺めた。こっちの家屋もほとんど人は住んでいない。

p381
逆の方向を向いて、フアドは国境の向こう側から双眼鏡でこちらを覗いているエジプト兵に手を振って呼びかけた。
返事は返って来なかった。
OK、さぁお終いにしよう。
僕はフアドに別れの挨拶をした。
アシュラフにもさようならを言って
抱き合った。
ダダダッ
機関銃の銃撃だ!
荷台付きの馬車が脇を走り抜けて行った。
これが三人で笑った最後になった。

p382タイトル「海岸通り」
もう1956年プロジェクトは終わりにしよう。
ひょっとしたらまだ新発見や聞くべき話があるかもしれないけど、もう収穫逓減点に達してしまったと思う。ここで綱を切って後は忘却の彼方へ流れるにまかせよう。
この歴史家はしようと思えばまだ研究を続けられるだろうけど、でももう、疲れてしまったし、そろそろ自分の人生を進みたいと思っている。そして読者も同じ思いだろうと。
タクシーに乗って海岸通りを走るのもこれが最後だ。
ラファフを出てハーン・ユーニスへ、アブ・フーリ検問所を通ってガザ市へ向う。
明日にはエルサレムに着いて、数日後にはヨーロッパだ。
海岸通り!
数百メートル南ではブルドーザーがきしみながら作業してるかもしれないが、ここはクラクションが鳴り、人々がひっきりなしに行き来している。

p383
アブドと僕はここに来て1956年11月12日に何が起きたのかを解明し、反論する人もいるかもしれないが、今や僕達は世界で最高の専門家になった。
兵士が並び、靴が脱ぎ散らかったこの道を、僕達はラファフの老人達に何回走らせた事になるだろう。
老人達を何回、棍棒を持った兵士達の中に押し込み、何回校門をくぐらせた事になるだろう。
顔を下に向けさせたまま座らせ、おしっこをもれるがままにさせたのは、どのくらいの回数になるだろう。
そして最後にプロジェクトを終えてから、僕達は老人達にあの壁を壊させて家に帰らせた事になる。
タクシー運賃の交渉をしながら、僕は最後のインタビューを思い出していた。アブドの友人の祖父に話を聞いた時だ。
アブ・ジュヒシュは学校に入る時棍棒で頭を殴られ、友人が砂で頭からの流血を止めようとしていた、あの男性だ。(*)
(*)p266参照

p384
アブ・ジュヒシュは心臓疾患があって面会は何度も延期していた。
しかしようやく曾孫のベタルがアブと会わせてくれた。
アブ・ジュヒシュは概略的な話でさえ一生懸命詳細に話をしてくれた。
しかし間も無く泣き出してしまった。
話を聞いている時、目の前で老人が泣き出す事はよくあったし、どうすればいいかも分かっていた。
十分ですから、続けなくて結構ですからと、安心させるんだ―
ベタル「おじいちゃん、気を強く持って」
ベタル「感情的になるんじゃなくて、憶えてる事を話してみて」
そうするとアブ・ジュヒシュは途切れ途切れ話を続けたのだが、ベタルがさっと要点を聞いた。
ベタル「あの日、憶えてる事で一番嫌だったのは何?」
アブ「怖かった」
アブ「怖かったんだ」
僕は何かを見失っていた事に気付いて、急に自分が恥ずかしくなった。証拠を集め、解きほぐし、分解し、見出しを付けて、図表に記録していく過程で見失っていった何かを。

p385
そして今僕は話を聞いた多くの老人達を思い出している。僕の根気を試そうとしたり、とりとめなくしゃべったりする老人、話が混ぜこぜになってる老人や話を先に飛ばす老人。
校門の有刺鉄線を憶えていない老人や或いは、村長はいつ立ち上がったかのかとか、ジープは何処に止めてあったのかとか。
そして何回ため息をついて、心の中で何度、目を回したか、思い出していた。
だって僕は老人よりもあの日の出来事を多く知ってしまったからね。

p386-388台詞なし。